トマス・サックヴィル (初代ドーセット伯) トマス・サックヴィル (初代ドーセット伯)の概要

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トマス・サックヴィル (初代ドーセット伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/07 06:29 UTC 版)

初代ドーセット伯
トマス・サックヴィル
Thomas Sackville
1st Earl of Dorset
生年月日 1536年
出生地 イングランド王国サセックスウィジーハム英語版バックハースト英語版
没年月日 1608年4月19日
死没地 イングランド王国ロンドンホワイトホール
出身校 インナー・テンプル
前職 法廷弁護士
称号 初代ドーセット伯、初代バックハースト男爵、ガーター勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者 セシリー(旧姓ベイカー)

大蔵卿英語版
在任期間 1599年 - 1608年4月19日
女王
国王
エリザベス1世
ジェームズ1世

庶民院議員
選挙区 ウェストモーランド選挙区英語版
イースト・グリンステッド選挙区英語版
アリスバリー選挙区英語版
在任期間 1558年
1559年
1563年 - 1567年

貴族院議員
在任期間 1567年6月8日 - 1608年4月19日
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1558年庶民院議員として政界入りし、エリザベス朝からステュアート朝初期にかけての宮廷で役職を歴任した。1599年から死去までは大蔵卿英語版を務めた。

1567年にバックハースト男爵、1604年にドーセット伯爵に叙された。ドーセット伯爵(ドーセット公爵)サックヴィル家の貴族としての祖にあたる。

経歴

1536年庶民院議員や財務大臣を務めた政治家リチャード・サックヴィル英語版とその妻ウィニフレッド(旧姓ブリッジス)[1][2]の間の唯一の男子としてサセックスウィジーハム英語版バックハースト英語版に誕生[3]。父はアン・ブーリンの従兄弟にあたる[4]

サリントン英語版グラマースクールで学ぶ[3]。さらにインナー・テンプルで学び、法廷弁護士となる[2]オックスフォード大学ケンブリッジ大学で学んだとも伝えられるが[2]、確証はない[1]

メアリー女王時代の1558年ウェストモーランド選挙区英語版から選出されて庶民院議員となった。エリザベス女王時代も1559年イースト・グリンステッド選挙区英語版から、1563年から1567年にかけてはアリスバリー選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務めている[1][3]

若いころにはフリーメイソン活動に熱心で1561年から1567年にかけてグランドマスターを務めた[3]

1567年にはエリザベス女王よりネーデルラント大使に任じられた[4]。また貴族院におけるプロテスタント党派を強化しようというエリザベス女王の目論見から1567年6月にはバックハースト男爵に叙されて貴族院議員に列した[3]

1582年から1586年にかけては枢密顧問官を務める[1]1571年から1572年の第4代ノーフォーク公トマス・ハワードの裁判、1586年アンソニー・バビントン英語版の裁判、1589年の第20代アランデル伯フィリップ・ハワードの裁判などに裁判官の一人として参加している[3]1586年のスコットランド元女王メアリー・ステュアートの裁判でも裁判官に任命され、メアリーに死刑宣告を伝達する役割を果たした[3][4]

1586年から死去までサセックス統監英語版を務め[1]1591年から死去までオックスフォード大学総長英語版を務めた[1][2]

1588年に政敵の初代レスター伯ロバート・ダドリーが死去したことにより女王の彼への信頼を妨げるものがなくなり、出世が早まった[3]。1588年12月には教会問題コミッショナーに任じられ、1589年4月にはガーター騎士団のナイトに叙されるとともにウィンザーに置かれて外交問題を担当した[3]1589年にはネーデルラントの大使館に派遣され、ついで1591年のフランスとの条約締結の際には女王名代の一人として条約にサインをしている[3]

1591年大法官クリストファー・ハットン英語版が死去するとそのポストが委員会制になり、彼は委員の一人となった[3]1598年8月に大蔵卿英語版初代バーリー男爵ウィリアム・セシルが死去すると1599年に代わって大蔵卿に就任した[1][2][3]

1601年の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーの裁判の際には大家令を務めた[3]

エリザベスが崩御してジェームズ1世が即位した後も重用され、1604年にはドーセット伯に叙された[1][2]

1608年4月19日ロンドンホワイトホールでの枢密院会議中に突然死した[3]。爵位は長男のロバート英語版が継承した[1][2]

人物

青壮年期には詩作を多くし、1561年にはトマス・ノートン英語版との合作でブランクヴァース(無韻詩)による最初の英語の詩『ゴーボダックの悲劇』(Tragedy of Gorbodac)を著した。他にも『役人の鏡』(A Mirror for Magistrates、1563年)等を著した[4]


  1. ^ a b c d e f g h i j k l Heraldic Media Limited. “Dorset, Earl of (E, 1604 - 1843)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年2月17日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年6月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “Thomas Sackville, 1st Earl of Dorset” (英語). thepeerage.com. 2016年6月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o "Sackville, Thomas" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  4. ^ a b c d 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 660.


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