ティキヌスの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/21 05:59 UTC 版)
戦闘経過
この戦闘における両軍の戦力の詳細は不明であるが、おそらくカルタゴ軍は騎兵の全力で約6,000名、ローマ軍は騎兵とウェリテス(軽装歩兵)を合わせて約4,000名程度であろうと推測される。ハンニバルは両翼に精強なヌミディア騎兵を置き、中央にガリア・ヒスパニア騎兵を置いた。ローマ側は前面にウェリテスの戦列を並べ、その後方に騎兵を置いた。
カルタゴ軍の騎兵が突撃すると、ローマ軍軽装歩兵はピルム(投げ槍)を投擲した。しかし、カルタゴ軍の前進を阻止できず、逆に突入されて歩兵戦列は乱れ、またたくまに壊走した。続いてカルタゴ騎兵とローマ騎兵の交戦が始まった。もとより、ローマ軍は数で劣っており、次第に圧倒されだした。両翼のヌミディア騎兵が早々にローマ騎兵両翼を撃破し、ローマ軍中央は包囲されそうになった。さらにスキピオもカルタゴ騎兵によって負傷させられたため、ローマ軍は野営地まで撤退した。
なお、負傷したスキピオを包囲下から救い出したのは、リグリア人の奴隷という説と、息子プブリウス(後のスキピオ・アフリカヌス)という説が存在する。ただし、後者はスキピオ・アフリカヌスの偉大さを顕彰するための創作ではないかと考えられている。
結果
この戦いは偵察部隊同士の遭遇戦であり、互いに大きな損害を出したわけではなかった。しかし、ハンニバルのローマに対する初勝利という点で十分な宣伝効果があった。この戦い以降、現地兵の徴募が円滑に進むようになったのである。さらにローマ軍内のガリア兵2,200名が脱走して、カルタゴ軍に合流した。この結果、カルタゴ軍は約40,000名まで増加した。ただし、この時点では全ての現地部族が味方になったわけではなく、ガリア・キサルピナでもポー川以南の部族は依然としてローマを支持していた。彼らを味方にするため、また、最終的勝利に不可欠なローマ同盟諸都市の離反を誘うためにも、ハンニバルはより大きな勝利を挙げる必要があった。それゆえ、彼は積極的に決戦を求め、ローマ野戦軍の壊滅を狙った。以降のハンニバルの行動は、こうした基本戦略に基づいている。
一方、スキピオは軍をプラケンティア(現在のピアチェンツァ)まで後退させ、その後トレビア川以南まで後退させた。スキピオはカルタゴ軍の戦力を侮れないものと考え、同僚の執政官ティトゥス・センプロニウス・ロングスと合流して、万全の態勢でこれを迎え撃とうとしたのである。両軍はトレビア川を挟んで対峙し、続くトレビアの戦いに臨むこととなった。
参考書籍
- ベルナール・コンベ=ファルヌー著、石川勝二訳『ポエニ戦争』白水社、文庫クセジュ
- 長谷川博隆『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』講談社、講談社学術文庫
固有名詞の分類
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