チャガタイ・ハン国
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宗教
チャガタイは領民に伝統的なモンゴルの法律(ヤサ)の遵守を徹底していたため、イスラム法と背反するヤサの適用に領内のイスラム教徒は不満を抱いていたと言われている[11]。オゴデイはイスラム教徒が受ける苦痛を極力和らげるように努め、チャガタイは早期にイスラム教徒のハバシュ・アーミドを宰相として重用していたため、彼がイスラム教徒に強い敵意を抱いていたという観点には疑問が持たれている[14]。ヤサの遵守を迫るモンゴル人支配者に対して、イスラム教徒は支配者の改宗という方法で状況を改善しようと試みた[85]。イェス・モンケの宰相バハーアッディーン・マルギーナーニーはイスラム教徒を保護し、彼の邸宅が文人のサロンになっていたと言われている[15]イェス・モンケの死後にウルスの統治者となったオルガナは熱心な仏教徒であったが、イスラム教を保護したと伝えられている[86]。
チャガタイ王家の改宗には長い時間を要し、1266年にイスラム教徒のムバーラク・シャーが即位するが、同年にバラクによって廃位される[87]。1270年/71年にバラクはイスラム教に改宗したと言われ[51]、1326年に即位したタルマシリンはドゥア一門の中で最初に改宗した君主とされている[87]。モンゴル人の支配下で中央アジアのウラマー(イスラームの知識人)は権威を喪失し、代わってスーフィー(神秘主義者)が定住民と支配者の仲介者の役割を担うようになった[88]。チャガタイ家の王族の改宗にはスーフィズムの思想が関与し、スーフィーが王族の改宗に大きな役割を果たした伝承が残されている[89]。中央アジアで活動するスーフィー教団のナクシュバンディー教団の指導者であるバハーアッディーン・ナクシュバンド(1318年 - 1389年)は、前半生をチャガタイ・ハン国の混乱期で過ごしたと考えられている[90]。
1330年代にタルマシリンに対して反乱を起こしたウルス東部では、タルマシリンのイスラム教信仰への反動のため、ネストリウス派、フランシスコ会などの キリスト教の活動が盛んになった[56]。1338年に教皇ベネディクトゥス12世はリシャール・ド・ブルゴーニュをアルマリク司教に任命するが、1339年/40年にイリ地方のイスラム教徒の暴動によってリシャールらフランシスコ会士は殺害される[56]。やがてアルマリクのキリスト教勢力は衰退し、古くからイリ地方に居住していたネストリウス派の信者はティムールによって弾圧される[91]。
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