ズールー戦争
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第二次侵攻(1879年6月~7月)
侵攻の再開は英軍にとって必ずしも成功は約束されていなかった。カンブラ、ギンギンドロブ、エショーヴェでの勝利にもかかわらず、彼らは1月の初めに侵攻を開始した地点まで後退していた。だが、チェルムスフォードは自らの軍事的名声と軍歴を守るためにウルズリーが到着するよりも前にセテワヨの軍隊を決定的に撃滅する必要があったのである。より多くの増援部隊が到着するとチェルムスフォードは部隊を再編し、6月に侵攻を開始した。
- 英国軍(チェルムスフォード中将)
- 第一師団 - (ヘンリー・フォード・クリロック少将)
- 第一旅団 - (ピアソン大佐)
- 第二旅団 - (クラーク大佐)
- 第二師団 - (エドワード・ニューディーゲート少将)
- 第一旅団 - (コリンウッド大佐)
- 第二旅団 - (グリン大佐)
- 騎兵旅団 - (マーシャル少将)
- 別働隊 - (ウッド准将)
- 第一師団 - (ヘンリー・フォード・クリロック少将)
クリロックの第一師団は海沿いを進軍。ニューディーゲートの第二師団と別働隊はロルクズ・ドリフトを越えて内陸部を進みカンブラを経てウルンディへ向かった。
初期の戦闘での英軍の戦死者の一人がフランス帝位請求者ナポレオン・ウジェーヌ皇太子だった。英軍に志願し従軍していた彼は6月1日に偵察部隊に加わって出動した際に戦死している。
セテワヨは新たに増強された英軍が非常に強力な敵であることを認識しており、和平条約の交渉を打診してきた。だが、ウルズリー将軍の到着が迫っており、チェルムスフォードには交渉の意思は全くなかった。彼はズールー軍主力を打ち破るべく王都ウルンディへ可能な限り早く前進した。
7月4日、砲兵隊とガトリング砲を擁する第二師団とウッドの別働隊の将兵5317人がウルンディ前面に到着。英軍と1万2千から2万のズールー軍が衝突し、最後の決戦ウルンディの戦いが行われた。英軍は歩兵を2列、騎兵と原住民補助兵を内側に置いた方陣を組んでズールーの攻撃を待ち構えた。方陣はウルンディへ向けて前進し、午前9時にズールー軍が突撃をかけた。ズールー戦士たちの波状攻撃は小銃射撃によってなぎ倒される。ズールー軍が混乱したところへ騎兵隊が方陣から出撃して蹴散らした。戦闘は2時間で終わり、英軍の完勝だった。英軍は戦死12人、負傷70人だったのに対して、ズールー軍の犠牲者は1,500人に及んだ。ズールー軍は潰走し、ウルンディは焼き払われた。
- ^ Colenso, Frances E.; (assisted by Edward Durnford) (1880) History of the Zulu War and Its Origin, London: Chapman and Hall, pp. 263-264 では大英帝国本国および植民地兵が6,669、原住民部隊9,035としている。
- ^ Morris,Donald R. (1994) The Washing of the Spears, reissued: Da Capo Press, 1998, p.498. Colenso, F. E. (1880) History of the Zulu War and Its Origin, London, p.396, では英軍の4月時点の兵力を22,545としている。
- ^ Colenso, F. E. (1880) History of the Zulu War and Its Origin, London, p.318, ではズールー軍の総数は35,000とし、そのうち4000人がセテワヨと守備につき、残りが2個縦隊になって進軍したとある。
- ^ Barthorp, M. The Zulu War, p. 15
- ^ Barthorp, M. The Zulu War, p. 13
- ^ 「南アフリカの歴史」(レナード・トンプソン著、宮本正興、吉岡恒雄、峯陽一共訳)p228-p229
- ^ Martineau, Life of Frere, ii. xix.
- ^ 「ズールー戦争」山崎雅弘「歴史群像」2001年2月号収録 p174
- ^ 「ズールー戦争」山崎雅弘「歴史群像」2001年2月号収録 p172
- 1 ズールー戦争とは
- 2 ズールー戦争の概要
- 3 第二次侵攻(1879年6月~7月)
- 4 終戦
- 5 参考文献
- 6 関連項目
- 7 外部リンク
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