ジャン・ド・ベタンクール ジャン・ド・ベタンクールの概要

ジャン・ド・ベタンクール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:04 UTC 版)

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ジャン・ド・ベタンクール
Jean de Béthencourt
初代カナリア王国国王
後世に描かれたベタンクール像
在位 1404年 - 1425年

出生 1362年
フランス王国グランヴィル=ラ=テンチューリエール英語版
死去 1425年
カナリア王国英語版
配偶者 Jeanne de Fayel
父親 ジャン・ド・ベタンクール3世
母親 Marie de Bracquemont
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時代的背景

詳細は「植民地化以前のカナリア諸島英語版」を参照

カナリア諸島の存在は、カディスのカルタゴ人によって知られるようになった。ローマ時代の著述家である大プリニウスは、当地を「至福者の島」と記している。ジェノヴァの探検家ランツェロット・マロチェロ英語版は、1312年に諸島を再発見した事で知られている[1]。1339年、マジョルカ人のアンジェリーノ・ドゥルチェルト英語版が初めてカナリア諸島の地図を作成し、島の一つを「ランサローテ」と命名した[2]

前半生

サン・マルティン・レ・ガイヤール男爵ジャン・ド・ベタンクールの生地はノルマンディー地方のグランヴィル=ラ=テンチューリエール英語版であり、父はジャン・ド・ベタンクール3世、母はMarie de Bracquemontである。フランス王シャルル5世ナバラ王国との抗争の最中、当地一帯にある親ナバラ勢力の城砦について、その全てを破壊するか、何らかの形で領主の防衛能力を奪うよう命じた。ベタンクールの父は、ベタンクールがまだ幼児であった1364年5月、コシュレルの戦いベルトラン・デュ・ゲクランの麾下として参戦し戦死した。[2]グランヴィルの城砦は1365年に破壊された。1377年、15歳になったベタンクールはルイ1世・ダンジューに仕官し、その従者となった。1387年から1391年の間頃、彼はルイ・ド・ヴァロワとトゥーレーヌ公(後のオルレアン公)の法務官という名誉称号を授与された。1387年、シャルル6世は彼にグランヴィル城を再建する許可を与えた。

グランヴィルの領主として、ベタンクールは七つの教区とその中に流通するあらゆる物品に対する権限を得た。彼はベルトラン・デュ・ゲクランの後継者であるオリヴィエ・デュ・ゲクランの庇護下に入り、グランヴィルをロングヴィル公領英語版の属領とする形を取った。後年、ヘンリー5世がフランスに侵攻してノルマンディーの支配権を得ると、ヘンリー5世に従属する形に改められた。当時、英仏両国の力関係は非常に不安定であり、ベタンクールは英仏いずれの勢力に対しても海賊的行為を行っていたとみられる。1392年、彼はパリにおいて、Guillaume de FayelとMarguerite de Chatillonの娘であるJeanne de Fayelと結婚した。




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