ギルバート・マーシャル諸島の戦い マーシャル諸島の戦い

ギルバート・マーシャル諸島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/04 13:57 UTC 版)

マーシャル諸島の戦い

ギルバート攻略後、アメリカ軍は中部太平洋における次なる攻略目標としてマーシャル諸島を目指した。アメリカ軍の作戦計画は、まず、チェスター・ニミッツ提督がマーシャル東端のマロエラップウオッゼの両環礁と日本軍の司令部があるクェゼリン環礁を同時攻略するという計画を立てた。しかし、タラワ戦で上陸部隊を指揮したホーランド・スミス少将は3島に同時進攻するには兵力が十分でないとしてこの計画に反対し、レイモンド・スプルーアンスリッチモンド・ターナーの両提督もスミス少将と同意見であった。三人は、まずマロエラップとウオッゼを攻略し、その後にクェゼリンの攻略作戦を行うべきだと主張した。これに対してニミッツ提督は、クェゼリンの東側のマロエラップ、ウオッゼなどの日本軍基地は占領せず、クェゼリンのみを攻略対象とするという案を出した。スミス、スプルーアンス、ターナーの三人はこの案に反対したが、ニミッツ提督の意思は固く、スプルーアンス中将もこの計画を認めざるをえなかった。そのかわりにスプルーアンス中将は、クェゼリン攻略の際に日本軍がいないマジュロ環礁を同時占領して、ここをクェゼリン攻略作戦間の艦隊泊地と航空基地として使用することを進言した。これをニミッツ提督は承諾し、アメリカ軍の作戦計画は決定した。計画にはエニウェトク環礁の攻略も含まれたが、エニウェトクに進攻する時期と使用兵力はクェゼリン作戦の結果により決定するとされた[1]

一方、日本軍は、ギルバートに近いミリ環礁ジャルート環礁(ヤルート)、あるいはハワイから最も近い所にあるマロエラップかウオッゼに次のアメリカ軍の攻撃が向けられるものと考えていた。そのため、日本軍はこれらの前線基地に優先的に物資と人員を送っており、クェゼリンの防備はこれらの島と比べて進んでいなかった。ジャルート環礁(ヤルート)などに陸軍の南洋支隊が守備隊として駐屯している一方、クェゼリンには海上機動第一旅団の一部が着いたばかりだった。

1944年1月末、アメリカ軍はマーシャル諸島一帯を激しく空襲し、日本軍の基地航空部隊を壊滅させた。日本軍の反撃能力を奪った後、アメリカ軍はクェゼリン環礁へ上陸を開始した。準備不足の日本軍は、短期間のクェゼリンの戦いで全滅した。

クェゼリン攻略作戦開始後、攻略作戦が予想以上に順調に進捗していると判断したアメリカ軍は、クェゼリン攻略作戦の予備兵力を使用してエニウェトク環礁の攻略を繰上げて実施することを決定した。その準備として日本海軍の中部太平洋方面の拠点で、エニウェトク環礁に近いトラック島を攻撃して日本の航空戦力を制圧することも決定された。アメリカ軍空母部隊(第58任務部隊)は1944年2月17~18日にかけてトラック島を空襲し、これにより島の日本軍の航空戦力は壊滅した。続いて、2月19日にアメリカ軍はエニウェトク環礁への上陸を開始し、エニウェトクの戦いでも日本軍守備隊は全滅した。

マーシャル諸島の守備隊配置状況

日本軍はマキン、タラワの失陥以来、満洲関東軍からも兵力を送った。1944年1月15日の時の各島の兵力は

  • クェゼリン 5210名
  • ミリ 4640名
  • マロエラップ 3330名
  • ウオッゼ 3324名
  • ルオット・ナムル 2900名
  • ヤルート 2311名

となっていたが、各島の兵力は充分とはいえず、防御施設はほとんど整備されていなかった。なお、クェゼリンの兵力のうち、陸軍部隊1000名は輸送船の都合でクェゼリンに待機を余儀なくされていた部隊で、ウオッゼへ進出の予定であった。そのため、クェゼリンでは実戦部隊としての任務についていなかった。

マジュロ環礁(メジュロ環礁)

1944年2月1日、ハリー・ヒル少将が指揮する攻略部隊が上陸。島には日本軍守備隊はおらず、同日中に無血占領を果たした。環礁はアメリカ海軍の泊地(休養、補給、修理)として整備され、その後の作戦で重要な役割を果たした。

クェゼリン環礁

ルオット島・ナムル島

ルオット(ロイ)島とナムル島はクェゼリン環礁の北部にある双子島で、第61警備隊分遣隊約400名を主力とした2900名が守備についていた。

1944年1月30日より、リチャード・コノリー少将指揮の攻撃部隊による空襲と艦砲射撃を受けるようになり、2月2日に海兵第4師団の海兵第23、24連隊が上陸した。事前の砲爆撃で日本軍守備隊のほとんどは死傷していた。そのため、同日中に米軍は両島を占領できた。

クェゼリン島

クェゼリン島には日本陸軍海上機動第1旅団第2大隊約1000名を中心とした5210名が守備についていた。

1944年1月30日からリッチモンド・ターナー中将指揮の攻撃部隊による空襲と艦砲射撃を受けるようになり、2月2日午前に米軍は上陸を開始した。

その日の夜、日本軍は夜襲をかけ米軍を海岸まで一時撤退させた。しかし、米軍は、環礁内の周辺無人島から砲撃を加え、日本軍を撃退した。その後は日本軍は守勢となり、守備隊は5日に玉砕した。生存者は263名。

エニウェトク環礁

航空支援を受けつつ前進するアメリカ軍

エニウェトクには海上機動第1旅団主力2763名を中心とした3560名の日本軍が守備についていた。

当初、エニウェトクは今次作戦の攻略対象ではなかったが、クェゼリン攻略の予備隊として準備していた第4海兵師団第22連隊と第27歩兵師団第106大隊を使用しなかったので、この部隊をエニウェトク攻略にあてることになった。

1月31日からマーク・ミッチャー少将指揮の攻撃部隊による空襲を受け、2月18日未明から艦砲射撃が開始された。そして2月19日午前に米軍はエンチャビ島に上陸を開始し、同日中にエンチャビ島を占領した。その後、米軍は同環礁内のエニウェトク島、メリレン島にも上陸し、23日までに同環礁を確保した。

マロエラップ環礁

同環礁には、タロア島を中心に陸軍3000名、海軍警備隊1100名、他に海軍航空部隊が展開していた。

1944年1月30日、スプルーアンス部隊の攻撃を受けて飛行隊を中心とした航空施設は壊滅的な打撃を受け、本土から救援も絶望的な状況になる。しかし、同島はアメリカ軍の占領地域には入っておらず、終戦までアメリカ軍による航空攻撃と降伏勧告が続く。しかし、生き残った部隊は降伏する事無く、結果として終戦まで同島を維持する事に成功する。

その他の島

1944年1月30日、米軍による上陸作戦が直接行われなかった島に対しても空襲や艦砲射撃による攻撃が行われた。マロエラップとウオッゼにはマーク・ミッチャー少将指揮の攻撃部隊が、ミリとヤルートにはジョン・フーバー少将指揮の基地航空隊が攻撃を行った。

これらの島はクェゼリン陥落後、日本本土からの食糧などの補給が困難となり、終戦時まで飢餓に悩まされることになる。

ミリ環礁(ミレー島)のクェゼリン陥落から終戦までの悲惨な状況は、「NHK 戦争証言 アーカイブス 証言記録 兵士たちの戦争」の「飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~」に多くの証言が記録されている。


  1. ^ ニミッツ P.234


「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」の関連用語

ギルバート・マーシャル諸島の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ギルバート・マーシャル諸島の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのギルバート・マーシャル諸島の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS