カンザス州の歴史 カンザス準州

カンザス州の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/29 23:41 UTC 版)

カンザス準州

1854年5月30日にカンザス・ネブラスカ法が成立したとき、カンザス準州の境界はミズーリ州の境界をロッキー山脈の峯に伸ばしたものとされた。南の境界は北緯37度線であり、北の境界は北緯40度線だった。北緯40度線より北はネブラスカ準州だった。連邦議会がカンザス準州南の境界を北緯37度線と定めたとき、オーセージ族の南の境界も北緯37度線と考えられた。チェロキー族が直ぐに苦情を出し、それは本当の境界ではなく、カンザスの境界はチェローキー族の土地の実際の境界に一致させるために北へ動かすべきと言った。このことはチェロキー・ストリップ論争と呼ばれるようになった。

暴力の導入

カンザス・ネブラスカ法で最も議論を呼んだ条項は、カンザス準州の開拓者達が境界内で奴隷制を認めるかどうかを決めるという取り決めだった。この条項は、北緯36度30分より北で創られる新しい州では奴隷制を禁じていた1820年のミズーリ妥協を無効にした。予想通り、そこに定住するために殺到した北部人と南部人の間に暴力沙汰も起きた。

カンザス・ネブラスカ法成立から数日の内に、何百という奴隷制擁護のミズーリ人が隣接する準州に入ってきて、ある地域の土地を選び、続いて1回の集会あるいは複数の集会で他のミズーリ人と団結し、地域全体に奴隷制擁護の優先権を確立しようと目論んだ。1854年6月10日には既に、ミズーリ人がフォート・レブンワースの西3マイル (5 km)の交易基地であるソルトクリーク・バレーで集会を開き、「無断入植者のクレーム協会」が結成された。集まった者達はカンザスを奴隷州にすることに賛成し、ミズーリ州住人の半数が必要ならば、マスケット銃を手にして移民してきて、その命を犠牲にしてでもこの目的を達成させると言った。

この抗争に対抗するために、マサチューセッツ州移民援助会社が(さらに他の小さな組織も)直ぐに反奴隷制の開拓者(自由州人と呼ばれた)を1854年1855年にカンザスに送り込む手配をした。ニューイングランドの者達によって設立された主要な町にはトピカマンハッタン、およびローレンスがあった。幾人かの自由州人はオハイオ州アイオワ州イリノイ州など他の中西部の州からも来ていた。

血を流すカンザス

開拓者達が接近していることと目的が相反していることにも拘わらず、1855年3月30日にカンザス準州議会の選挙が行われるまでは、暴力についてはほとんど蓋がされていた。この日、州境を越えて流入した「ボーダー・ラフィアンズ英語版」と呼ばれたミズーリ州人が奴隷制擁護派の代議員に投票する票で投票箱を埋めた。その結果、一つの選挙区(後のライリー郡)を除いて全ての選挙区で奴隷制擁護派の代議員が選ばれ、最初の公式議会は奴隷制擁護派が圧倒するものになった。

1855年から1858年、カンザス準州では多くの暴力沙汰や幾つかの戦闘行為が起こった。この期間は「血を流すカンザス」あるいは「境界戦争」と呼ばれ、直接南北戦争の予兆となった。血を流すカンザスの中で大きな出来事には、ワカルーサ戦争、ローレンス襲撃、ポタワトミ虐殺、ブラックジャックの戦い、オサワトミの戦い、およびメルダジーン虐殺があった。

  • ワカルーサ戦争

1855年12月1日、ミズーリ州人の小さな軍隊がダグラス郡保安官サミュエル・J・ジョーンズに率いられ、自由州人の強い基盤であるローレンスを包囲し、これが後にワカルーサ戦争と呼ばれることになった。奴隷制擁護派敵対者の影響と蔓延の下で、ミズーリ州西部はその内部まで混乱の渦になり、奴隷制廃止論者のローレンスの征服のために軍隊をはき出すことになった。大混乱の中で休戦条約の交渉が宣言され、その後間もなく条約が大声で読み上げられた。これで混乱は収まりその条件が一般に受け入れられた。

  • ローレンス襲撃
ジョン・ブラウン

1856年5月21日、ジョーンズ保安官に率いられた奴隷制擁護派軍隊が再度ローレンスを攻撃し、2人の男性を殺し、自由州ホテルを燃やし尽くし、2台の印刷機を破壊し、住家に略奪に入った。

  • ポタワトミ虐殺

ポタワトミ虐殺は1856年5月24日の夜から25日の朝にかけて起こった。ローレンス襲撃に対する反応と思われる行動で、ジョン・ブラウンと一群の奴隷制廃止派(そのうち数人はポタワトミ・ライフルズの一員)が幅広の刀を用い、フランクリン郡ポタワトミ・クリークの北で、奴隷制擁護派と考えられる5人の開拓者を殺した。後にブラウンはポタワトミ虐殺の間の殺人には参加しなかった言ったが、それを承認したとも言った。この殺人後に行方を眩まし、2人の息子、ジョン・ジュニアとジェイソンが逮捕された。この2人が監禁されている間に虐待されたということであり、ジョン・ジュニアは精神的な傷を負った。6月2日、ブラウンはブラックジャックの戦いでヘンリー・ペイト大尉が率いるミズーリ州人の1隊を攻撃して成功した。ペイトとその部下はブラウン達を捕まえるためにカンザスに入っていた。その年の秋、ブラウンは地下に潜り、ゲリラ活動を続けた。

準州憲法

カンザス準州内の深い亀裂を反映して、カンザスが州として合衆国に加盟を認められる前に、基本法として4つの憲法が作られた。それぞれの憲法は将来のカンザス州におけるアフリカ系アメリカ人の扱いについて異なる見解を反映していた。

  • トピカ憲法

最初にできたトピカ憲法英語版1855年11月11日に自由州人の集会で採択された。将来のカンザス州で奴隷制を禁止し、カンザスから全ての自由アフリカ系アメリカ人を除外する自由州の原則を含んでいた。この集会は準州あるいは連邦政府に承認されず、12月15日に行われた住民投票で準州の人々に承認されたが、法的文書として認められることは無かった。

  • ルコンプトン憲法

ルコンプトン憲法英語版は、1857年11月7日に公式の奴隷制擁護派政府によって招集された会議で採択された。この憲法は草稿通りカンザスでの奴隷制を容認したが、奴隷制条項は住民投票に付された。この条項と憲法自体に関して一連の投票が奴隷制擁護派開拓者と自由州人開拓者との交互に忌避されたあとで、ルコンプトン憲法は最終的に連邦議会の承認を求めて提出された。最後はこの憲法が住民の意思を代表しているか明らかにできなかったので、受理されなかった。

  • レブンワース憲法

ルコンプトン憲法について議論されている間に、カンザス準州で新しい自由州人の議会議員が選ばれ着任した。新議会は新たな集会を招集し、レブンワース憲法英語版を作った。この憲法は提案された4つの憲法の中で最も急進的なものであり、奴隷制を違法とし、女性参政権の枠組みを入れていた。この憲法は1858年4月3日レブンワースでの集会で採択され、同5月18日の住民投票で承認された(すべてはルコンプトン憲法が検討中の出来事だった)。連邦議会はその批准を拒否した。

  • ワイアンドット憲法

ルコンプトン憲法とレブンワース憲法の失敗に続いて、4番目の憲法が起草された。ワイアンドット憲法英語版1859年7月29日にそれを作成した集会で採択された。同年10月4日に行われた住民投票でも承認された。これは奴隷制を違法としたが、レブンワース憲法よりは急進的な色彩が薄れた。カンザスはこの憲法の下で1861年1月29日に自由州として合衆国に加盟した。

敵対関係の終わり

ワイアンドット憲法が形作られた時までに、奴隷制擁護派部隊がカンザスを支配しようという企てが失敗したことが明らかになった。このようになったことが認識され、ジョン・ブラウンが州内から居なくなったことで、血を流すカンザスは1859年までに事実上終わった。


  1. ^ Kansa treaty http://digital.library.okstate.edu/Kappler/Vol2/treaties/kan0222.htm
  2. ^ Osage treaty http://digital.library.okstate.edu/kappler/vol2/treaties/osa0217.htm
  3. ^ Shawanoe treaty http://digital.library.okstate.edu/Kappler/Vol2/treaties/sha0262.htm
  4. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  5. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  6. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  7. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  8. ^ The Treaty with the Oto and Missouri Tribes of 1833
  9. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  10. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  11. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  12. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  13. ^ Indian Affairs: Laws and Treaties, Vol. II, Treaties. Compiled and edited by Charles J. Kappler. Washington : Government Printing Office, 1904. (cf. [The treaty with the ...] チェロキー族インディアン、およびアーカンソー準州領域内に現在住む者、ミシシッピ川より東の州にその友人や兄弟が住む者、さらに西部の兄弟と一緒になりたいと願う者に、恒久的な家を与える。これは合衆国の最も厳粛な保障のもとにあり、「永久に彼等の」ものであり、有り続ける。この家は将来の如何なる時にも、その周りに境界を延ばして邪魔をしたり、準州または州の司法権を及ぼしたり、あるいは現存する準州または州の境界を如何なる方法でも拡張して圧迫されることは決してない。)
  14. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  15. ^ INDIAN AFFAIRS: LAWS AND TREATIES. Vol. 2, Treaties
  16. ^ William G. Cutler's History of the State of Kansas. State History Part 21, Indian Troubles in Kansas (1864 - 1870).
  17. ^ Charles William Sloan, Jr., ""Kansas Battles the Invisible Empire: The Legal Ouster of the KKK From Kansas, 1922-1927," Kansas Historical Quarterly Fall, 1974 (Vol. 40, No. 3), pp 393-409] (ed. explains in detail how the KKK worked in Kansas.)





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