カナダ侵攻作戦
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モントリオールでの不満
モントゴメリー将軍はモントリオールを発ってケベック市に向かう際、市の管理をコネチカット出身のデイビッド・ウースター准将の手に預けていた。ウースターは当初そこの地域社会とまともな関係を築いていたが、地元の大衆がアメリカの軍隊が駐屯していることを嫌い始めるような多くの失政を行った。アメリカ人の抱く理想を大衆に約束した後でロイヤリストを逮捕し、アメリカ側に楯突く者は誰でも逮捕と刑罰で脅すようになった[60]。また幾つかの地域社会を武装解除させ、地元の民兵隊員にはイギリスからの任命を放棄するよう強制し、それを拒んだ者は逮捕されシャンブリー砦に拘禁された[61]。このような行動は、アメリカ側が物資や労働に対して硬貨ではなく紙幣で払っていたという事実と相まって、アメリカ側がやろうとしていること全体に対する地元住民の幻滅を生むことになった。1776年3月20日、ウースターはケベック市包囲中の部隊の指揮を執るためにモントリオールを離れ、アーノルドが到着する4月19日までの間、第2カナダ人連隊を立ち上げたモーゼス・ヘイズンにモントリオールの管理を委ねた[62]。
4月29日に大陸会議からの代表団3人が、フィラデルフィアからのカトリックの聖職者1人やフランス人出版者1人と共にモントリオールに到着した。大陸会議はこの代表団に、ケベックの状況を評価し、そこでの世論をアメリカ側に誘導するような任務を宛てていた。代表団にはベンジャミン・フランクリンもいたが、既に住民との関係がひどく悪化していたので、ほとんど何もできなかった。代表団は累積されていた住民への負債を解決するために硬貨を持ってきたわけでもなかった。カトリックの聖職者がアメリカ側の大義につかせようとしたが、これも失敗した。地元の聖職者はイギリスの議会によって成立していたケベック法で彼らの望むことは与えられていると指摘した。出版者のフルーリー・メスプレは新聞発行の準備をする一方で、代表団にとって事態が空回りし始める前に何かをする時間が無かった[63]。ケベック市の大陸軍がパニック状態に陥って退却をしているという報せを受けた後[64]、フランクリンと聖職者は5月11日にモントリオールを離れ、フィラデルフィアに戻った。代表団の他の2人、サミュエル・チェイスとチャールズ・キャロルはモントリオールの南部と東部の軍事的状況を分析し、そこが防御線を布く好位置だと分かった。5月27日、彼らは大陸会議に対するこの事態の報告書を書き、南に向けて出発した[65]。
シーダーズ
モントリオールの上流には、大陸軍が占領中に意に介さなかったイギリス軍の小さな駐屯地が並んでいた。春が近付くと、カユガ族、セネカ族およびミシソーガ族の戦士達が駐屯地の一つであるオスウェガッチーに集まり始め、そこの指揮官であるジョージ・フォスター大尉にアメリカに対抗できるだけの力を与えた[66]。フォスターはモントリオールから逃げてきた1人のロイヤリストの勧めで彼らを戦力に含めた[64]。さらにウースター将軍が上流側に物資を送ればそこのイギリス側に使われることを恐れて上流のインディアンとの交易を許可しておらず、愛国者側およびロイヤリスト側の商人達にとって悩みの種だったが、大陸会議の代表団がこの決定を覆したので物資が上流側に流れ始めた[67]。
モーゼス・ヘイズンは上流のイギリス側へ物資が流れることを阻止するため、またインディアンが集まっているという噂に反応し、ティモシー・ベデル大佐と390名の部隊を40マイル (64 km) 上流のレ・セドル(英語でザ・シーダーズ)という地点に派遣し、そこで柵で囲んだ防御工作物を造らせた[67]。フォスターはこの動きをインディアンのスパイやロイヤリストから知らされ、6月15日にインディアン、民兵および正規兵の混成部隊約250名で下流への行軍を始めた。複数回の戦闘(シーダーズの戦い)の中で、ベデルの副官アイザック・バターフィールドが18日に戦わずして全軍降伏し、他に援軍として送られた100名も19日の短時間の小競り合いの後で降伏した[68]。
カンズシェーヌ
アーノルドはバターフィールドが捕まったという報せを受け取ると、即座にこれら捕虜奪還のために部隊を集め始め、モントリオールから直ぐ上流のラシーンで塹壕を掘らせた。レ・セドルの防御柵内に捕虜を留め置いたフォスターはこの時500名ほどになった部隊でモントリオールに接近し、5月24日までにアーノルド部隊の位置情報を掴み、またアーノルドが自隊を凌駕するような増援を期待していることも知った。フォスターの部隊は兵数が減りつつあったので、セントジョンズ砦の包囲戦で捕虜になっていたイギリス兵と今捕まえているアメリカ兵の交換を交渉した。カンズシェーヌで短時間の砲撃が交わされた後、アーノルドも捕虜交換に応じ、5月27日から30日の間で実施された[69]。
- ^ 大陸軍の戦力は、何度も援軍が送られ、また多くの者が病気になって送り返されたり死んだりしたために集計が難しい。1776年5月時点での軍隊は5,000名と推計されたが、かなりの比率で軍務には不適な者が含まれており (Smith, Vol 2, p. 351)、また病気や徴兵期間の終了のために故郷に戻った者や、以前の戦闘で戦死または捕虜になった者、あるいはアーノルド遠征で引き返した者も含んでいない。1776年6月、ジョン・サリバンが3,000名以上を率いてソレルに到着した (Smith, Vol 2, p. 390)。アーノルド遠征隊が500名を失い (Smith, Vol 1, p 152)、ケベックの戦いで400名以上が捕虜になり、少なくとも900名はセントジョンズ砦包囲中に病気で送還されたとすれば、10,000名という推計はケベックに送られた勢力として合理的なものになる。ただし実働可能であった兵数はどの時点においてもこの推計よりかなり少なかったと考えられる。
- ^ Simeon, p. viiに拠れば、大陸軍侵略開始時点でのイギリス軍は正規兵700名だった。セントジョンズ砦とケベックでは民兵の支援があったとされ、主要な戦いでは総勢が1,800名になっていた(Smith (1907), vol 1, pp. 342-3 and Alden, p. 209)。1776年6月にチャールズ・ダグラスとジョン・バーゴインの率いる援軍が到着し、総勢は10,000名と民兵さらにインディアンとなった(Smith (1907), vol 2, p. 430)。
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