アークティック号沈没事故
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生き残りと救援
ニューファンドランド島
船が沈没した点から遠くない所でバーラムの救命艇は、一部しか埋まっていない左舷クォーター救命艇と出逢った。この2隻は積荷を平等にして全部で45人の者が、バーラムの指揮下に進むことに合意した。彼らは他の生存者を探すべきという考えを短時間検討して、これを却下し、その食料も無い艇はニューファンドランド島の海岸に向かって漕ぎ始めた。適切な羅針盤も無く、バーラムは海の流れと時々見られる星の瞬きを頼りに艇の方向を定めた[67]。これら生存者の多くは海水を被ったことで凍っていた。それでも、その夜と翌日も漕ぎ続けた。遠くに船影を2度見つけたが、相手から目撃はされなかった。9月29日早朝、ニューファンドランド島のアバロン半島の海岸線を視認し、それから間もなくセントジョンズの南約50マイル (80 km) にあるブロード・コーブで上陸した[68]。
この隊は小休止した後で4マイル(6 km) 北にある漁村のレニューズに移動した[69]。そこでアークティック号のパーサー、ジョン・ゲイブが、セントジョンズのアメリカ領事宛ての伝令で短い伝言を送り、衝突のことを知らせた。バーラムは2隻のスクーナーを雇い、その1隻で他の二人と共に沈没場所に戻って生存者を探した。もう1隻は生存者たちを乗せてセントジョンズに向かった。彼らが10月2日午後にセントジョンズに到着すると、ベスタ号が無事港に係留されているのを見て驚かされた[68]。ベスタ号は船首の損傷が大きかったが、耐水性の隔壁があったので沈没はせず、船上にあった者のほぼ全員を乗せたまま緩りセントジョンズまで進むことが出来ていた[70]。9月30日に到着した時に、事故の最初で不正確な報告を行い、地元紙の「パトリオット・アンド・テラ・ノバ・ヘラルド」では、アークティック号が生き残ったことになっていた[71]。セントジョンズでのアークティック号生存者の受け入れは冷やかだった。というのもベスタが到着した後で、ウィリアム・フレイハートの事故に関する証言で、アークティック号が当て逃げしたと言っていたからだった[68]。
バーラムは3日間生存者を探したが無駄だった後に、10月3日に戻ってきた[68]。ゲイブのアメリカ領事に宛てた短い手紙がその日のセントジョンズの「ニューファンドランダー」に掲載され、一方ライバル紙の「パブリック・レッジャー」はバーラムが行った事故の詳細な証言を掲載した[71]。セントジョンズには電報設備が無かったので、これらの報告は蒸気船のマーリン号でノバスコシア州ハリファックスに運ばれ、そこからニューヨークまで電報で送ることができた。アークティック号の生存者の大半も同じ蒸気船で運ばれた。ゲイブがセントジョンズに留まり、さらなる生存者が到着するのを待っていた。マーリン号は沈没海域を回ってみたが、何も発見できなかった。その後はノバスコシアのシドニーに行き、10月11日にハリファックスに到着した[72]。
さらに生存者を見つけることを期待して、セントジョンズから多くの行動が行われた。イギリスのスクーナー、ジョン・クレメンツ号が1週間を使って捜索を行い、アークティック号の旗竿を持って戻ったが、人は居なかった。蒸気船ビクトリア号の所有者であるニューヨーク・ニューファンドランド・アンド・ロンドン電報社が、アメリカ領事にその船を1日500ドルで貸与することを申し出て、地元新聞からかなり批判されることになった。これとは対照的にニューファンドランド司祭エドワード・フィールドが、その私有ヨット、ホーク号を無償で提供した。最後はビクトリア号も無償で援助することに合意したが、「パブリック・レッジャー」の無記名通信員は、この船が通り一遍の捜索以上のことができるか疑問を呈した。ジョン・クレメンツ号以外の船はアークティック号の痕跡を見つけられなかった。破片を見つけたと報告した船もあったが、それを識別したり回収したりはできなかった[73]。
ヒューロン号、レバノン号、カンブリア号
ドリアンの救命艇は船の救命艇の中では最小のものであり、乗組員26人と乗客5人が乗り、乾舷が数インチしかなかった。悪天候の中で、ドリアンが間に合わせの海錨を作り、それでその夜と翌日も浸水することなく、波を乗り切っていた。9月28日午後遅く、遠くに帆船を目視し、それはケベックに向かうカナダのバーク船ヒューロン号であることが分かった。彼らがヒューロン号の方に漕いで行く途中で、間に合わせ筏にしがみついていたピーター・マケイブの傍を通った。その筏に取り付いていた72人の中で、前夜を乗り切った唯一の者だった。マケイブもヒューロン号に収容された[74]。マケイブは後に、救助されたときは死の10分前だと考えていたと回想した[75]。
翌日、ヒューロン号は別の帆船で、ニューヨークに向かっていたレバノン号と出逢った。ドリアンと乗客5人、乗組員12人は、レバノン号に移ることを選んだ。その他の乗組員はおそらく、母港での敵対的な受け入れを予想してヒューロン号に留まり、ケベックに向かい、10月13日に到着した[76][77]。
残骸を寄せ集めて生き残ったルース船長やその他の者達の苦難は2日間続いた。9月29日正午ごろ、グラスゴーを出てケベックに向かっていた帆船カンブリア号が、衝突後にアークティック号に救われていたベスタ号の漁師フランソワ・ジャソネットを見つけた[78]。その後の数時間で、カンブリア号はさらに9人を救助した[79]。その中にはルースとその仲間2人がおり、側輪囲いの残骸を避難場所とした11人の中で、僅かに生き残った者達だった[80]。カンブリア号が最後に拾ったのはジェイムズ・スミスであり、スコットランドの実業家であり、側板とブリキを張った籐籠を組み合わせた筏で生き残っていた。スミスはその苦難の間に遠くを過ぎる船影を少なくとも一度見ており、カンブリア号が到着したときはほとんど希望をなくすところだった。カンブリア号はその海域にそれ以上生存者がいないことを確認してから、ケベックへの航海を続けた。その航海の間の時間の大半を使って、ルースは事故の報告書を準備し、陸地に達すれば直ぐにニューヨークのエドワード・コリンズに送る準備ができていた。カンブリア号はヒューロン号に遅れること数時間、10月13日にケベックに到着した[79]。
アークティック号の救命艇の他の3隻の運命は分かっていない。衝突後にグーアレイがベスタ号を支援するために出発した右舷クォーターの救命艇、操舵手が支配して出した左舷ガードの救命艇、ロジャーズとその仲間が占有した前甲板救命艇だった。これら救命艇に乗っていた者の痕跡は見つかることが無かった。1854年11月半ば、スクーナーのリリー・デール号がグーアレイの空になった救命艇を見つけた。艇の状態は良く、中にはオールも残っていた[81]。12月半ば、左舷ガードの救命艇がニューファンドランド島のプラセンティア湾海岸に乗り上げたが、このときもそれに乗っていた者の運命を示唆するものは無かった[82][83]。
原註
- ^ シリウスは、アイルランドのクィーンズタウンをグレート・ウェスタンがブリストルを出港した日より4日早く出発していたので、大西洋横断を最初に成功させた蒸気船になった[3]
- ^ 補助金は1852年7月に858,000ドルまで増額され、コリンズ・ラインは年間20便から26便への増便に合意した。この航路は補助金に依存しており、航行自体から利益を生むことはなかった[10][11]
- ^ 当時アメリカ船の載貨重量はロードアイランド州プロビデンス税関が担当して計量していた[13]。アークティック号の載貨重量については資料によってやや異なる数値を出している。例えば、ブラウンは計測方法を規定することなく、アークティック号のの載貨重量を2,794トンとしている。[14]
- ^ アークティック号の正確な乗船者数は分かっていない。女性と子供の内訳も定かでない。アレクサンダー・ブラウン(1962年)は、乗客282人と乗り組員153人の名簿を作っているが、このリストには不正確なものが入っていることを認めている。それらの名前から女性と子供は少なくとも100人となり、その中には女性乗組員2人も入っているが、全員の性別が明白なわけではない[23]
- ^ 6隻の救命艇には公式の名前があった。左舷ガード、右舷ガード、左舷クォーター、右舷クォーター、前甲板、後甲板だった[46]
- ^ 当時も後からも多くの怒りが乗組員の自己保存的行動に向けられたが、2013年にスウェーデンのウプサラ大学で行われた研究では、アークティック号の乗組員の挙動は海難事故で比較的よくある話であることを示した。1852年から2011年の間に起きた海難事故15件の生存者データを調べると、(a)女性は生存のために明らかに不利である、(b) 乗組員の生存率は乗客の生存率よりも遥かに高い、(c) このような状況における人間の挙動は「誰もが自分のため」という表現で正確に要約されている、としていた。[93]
- ^ フルーリーの話は、まずある捕鯨船に救われ、それが長い航海の間に沈没し、フルーリーが遠隔の島に避難しているときに、第2の捕鯨船に拾われ、ニューヨークに戻ってきただけだと言っていた。その妻はその間に再婚していた[96]
- ^ 記者はアメリカの船舶における水夫の待遇について大変批判的だった。待遇が悪いので、自尊心を保持し、妥当で秩序あり、心の紳士的な習慣を保てなくなっていると考えた。私は、岸にある時に救いようもなく酔っ払うことのない我が国の水夫が100人の中に1人いるとは思えない。我が国の船に長く乗っている外国生まれの水夫にはさらに十分当てはまることになる。[99]
脚注
- ^ Hays, J. L.. “Lardner, Dionysius”. Oxford Dictionary of National Biography Online. 2014年5月20日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
- ^ Lienhard, John H.. “Engines of our Ingenuity, No. 550: Steam Across the Atlantic”. University of Houston. 2014年5月20日閲覧。
- ^ a b Atterbury, Paul. “Steam & Speed: The Power of Steam at Sea”. Victoria and Albert Museum. 2014年5月20日閲覧。
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- ^ Gould, p. 121.
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- ^ “United States Custom House Records”. Rhode Island Historical Society. 2014年5月22日閲覧。
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- ^ Shaw, David W. (2003). The Sea Shall Embrace Them: The Tragic Story of the Steamship Arctic. Simon & Schuster. p. 224
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