アルフォンソ13世 (スペイン王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 17:51 UTC 版)
逸話
- 若いころにフリーメイソンに加入した[9]。
- 一部のフランス正統王党派(レジティミスト)からはフランス王アルフォンス1世(フランス語: AlphonseⅠ)とされていた。
- 最後のオーストリア皇帝カール1世は2度の復位運動に失敗した後にスペイン南西方にあるマデイラ島(ポルトガル領)に流され、困窮のあげくに崩御した。カール1世が死んだ夜、どういうわけか「カール1世の妻子たちの面倒を見なくては」という義務感に突如として憑りつかれたという[10]。そのためアルフォンソは未亡人となった皇后ツィタや皇太子オットーらカールの遺族をスペイン国内に招き、宮殿を与えて手厚く庇護した。
- 1921年3月3日から9月3日までの間に、パリで、日本の皇太子(のちの昭和天皇)と昼食会を共にした(皇太子が御馳走になった)ことがある。このエピソードは長く不明となっていたがアルフォンソ13世の孫のフアン・カルロス1世が1980年に来日した際に、昭和天皇自身が「(皇太子時代の欧州訪問中に)私はあなたのおじいさんにごちそうになったことがあります」と明かしたことをきっかけに詳細が明らかとなり、スペインと日本の関係の緊密化に寄与した[11]。
参考文献
- 湯浅慎一『フリーメイソンリー その思想、人物、歴史』中央公論社〈中公新書955〉、1990年。ISBN 978-4121009555。
- タマラ・グリセール=ペカール 著、関田淳子 訳『チタ:ハプスブルク家最後の皇妃』新書館、1995年5月10日。ISBN 4-403-24038-0。
- 川成洋、坂東省次、桑原真夫『スペイン王権史』中央公論社〈中公選書012〉、2013年。ISBN 978-4-12-110012-2。
関連項目
- コパ・デル・レイ(アルフォンソ13世国王陛下杯)
- アルフォンソ13世 (戦艦)
- ホテル・アルフォンソ13世
- 米西戦争
- パリ条約
- アルフォンシーナ (小惑星)
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注釈
- ^ 父王が崩御した時点ではマリア・クリスティーナ王妃が身ごもった子供の性別が分からないため、胎児の分娩まではいったん王位を空位としたうえで、父王の長女であるマリア王女が暫定的な王位継承権第1位の立場につき、誕生した赤子が男児ならその子が直ちに国王に、女児ならマリアが女王となると事前に決められていた。
出典
- ^ a b c 『スペイン王権史』p.170
- ^ a b c d e f g 『スペイン王権史』p.171
- ^ a b 『スペイン王権史』p.176
- ^ 地方選圧勝の共和派が皇帝に挑戦的宣言『東京朝日新聞』昭和6年4月15日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p366 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ サモラ臨時政府首相が共和国成立を宣布『東京朝日新聞』昭和6年4月16日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p366)
- ^ 亡命の前皇帝パリ着、帝政派が出迎え『東京朝日新聞』昭和6年4月17日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p367)
- ^ “Los hijos bastardos de la realeza: los reconocidos y los que no lo lograron, entre ellos los de Don Juan Carlos I”. mytvshows. (2019年5月27日) 2019年7月5日閲覧。
- ^ “Más de 40 Borbones ilegítimos”. エル・ムンド (スペイン). (2015年1月17日) 2019年7月5日閲覧。
- ^ 湯浅慎一 1990, p. 219.
- ^ グリセール=ペカール(1995), p. 293.
- ^ 西川恵. “皇室はなぜ世界で尊敬されるのか”. 新潮社. 2019年7月2日閲覧。
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