アモリオンの戦い アモリオンの包囲と陥落

アモリオンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 07:24 UTC 版)

アモリオンの包囲と陥落

現代のアモリオンの遠景

アラブ軍は再びアシナースが前衛部隊を率い、カリフが中央の部隊、アフシーンが後衛部隊を率いる形で部隊を三分した。そして農村地帯を略奪しながら進軍を続け、8月1日にアモリオンに到着すると都市への包囲を開始した[26]。一方でテオフィロスはアモリオンの陥落を阻止するべくコンスタンティノープルを出発してドリュライオン英語版に向かい、そこからムウタスィムに使節を派遣した。包囲攻撃の始まる直前もしくは最初の日に到着した使節は、ソゾペトラでの残虐行為が皇帝の命令に反していたことを伝え、すべてのイスラーム教徒の捕虜を返還してソゾペトラの再建を支援し、さらには貢納を約束すると申し出た。しかし、ムウタスィムは使節との交渉を拒否しただけでなく、包囲の状況を目にすることができるように使節を自軍の野営地に拘留した[27]

包囲戦が行われた時期と同時代に生きたペルシア人地理学者のイブン・フルダーズベによれば、アモリオンの要塞は広い幅の堀と44の塔によって保護された厚い城壁を持つ強固な要塞であった。ムウタスィムは自軍の将軍たちを城壁が区切られている区間ごとに持ち場として割り当てた。包囲側と守備側はともに多くの攻城兵器とこれに対抗する兵器を用い、3日間にわたって互いに砲撃で応酬した。また、アラブ軍の工兵が城壁の下に坑道を掘り進めようとした。アラブ側の記録によれば、キリスト教に改宗していたあるアラブ人の捕虜が脱出してカリフの下に戻り、大雨によってひどく損傷し、守備側の指揮官の手抜きによって応急処置を施しただけの状態となっていた城壁の場所を知らせた。この情報を得たアラブ軍はその弱点となっている場所に攻撃を集中させた。守備側は木製のを吊り下げることで攻城兵器による攻撃の衝撃を緩和して城壁を保護ようとしたものの、それらも粉々にされ、2日後には城壁に裂け目ができた[28]。アエティオスはすぐに防御が危機的な状況になっていることを悟り、夜間に二人の使者を出して包囲を突破させ、テオフィロスとの連携を試みようとした。しかしながら、アエティオスが皇帝に送った使者は二人ともアラブ軍に捕らえられ、カリフの前に引き出された。二人はイスラームへ改宗することに同意し、ムウタスィムは二人に多くの報酬を与えた後、アエティオスとその部隊からはっきりと見えるように城壁の周りを行進させた。守備側の出撃を防ぐためにアラブ軍は警戒を強め、夜間においても騎兵隊による定期的な巡回を継続した[29]

アモリオンの城壁の跡

アラブ軍は城壁の裂け目に向けて攻撃を繰り返したが、守備側は頑強に抵抗した。タバリーによれば、それぞれ4人ずつが担当する台車に乗せたカタパルトと10人乗りの移動式の塔が組み立てられ、堀の端まで前進して土で満たした羊の皮(アラブ軍が食糧として持ち込んだ動物の皮であった)で掘を埋め立て始めた。しかし、兵士たちが守備側のカタパルトによる攻撃を恐れたために埋め立ては不均一なものになり、ムウタスィムは城壁に至る地面を敷き詰めるために羊の皮の土嚢の上に直接土を投げ込むように命じなければならなかった。そして埋め立てられた堀の上に塔を押し進めたものの、途中で動けなくなり、その塔と攻城兵器は燃やされて放棄せざるを得なくなった[30]。アシナースが率いた翌日の攻撃は城壁の裂け目の狭さのために失敗し、たまりかねたムウタスィムは裂け目を広げるためにより多くのカタパルトを投入するように命じた。次の日にはアフシーンが再び裂け目を攻撃し、さらにその翌日にはイーターフがこれに続いた[31]

ビザンツ軍の守備隊はアラブ軍による攻撃に絶えず曝されたために徐々に消耗していき、およそ2週間の包囲の後に(日付は現代の研究者によって8月12日、13日、または15日とさまざまに解釈されている[32])アエティオスはアモリオンの主教を長とする使者を派遣し、住民と守備隊の安全な退避と引き換えにアモリオンを明け渡すと申し出たが、ムウタスィムは提案を拒否した。その一方で城壁が崩れた場所を担当していたビザンツ軍の指揮官のボイディツェスが恐らく自軍を裏切る意図を持って直接カリフと交渉する決心をした。ボイディツェスは部下に対し自分が戻るまで崩壊した箇所の警備体制を解くように指示を残してアラブ軍の野営地に赴いた。そしてボイディツェスがカリフと交渉している間にアラブ軍が城壁の裂け目に近づき、突入の合図とともに城内に雪崩れ込んだ[33]。不意を突かれたビザンツ軍の抵抗は散発的なものだった。一部の兵士は修道院にバリケードを築いて立て籠もったが、放火されて焼死した。一方でアエティオスとその将校たちは城内の塔へ逃げ込んだものの、最終的に降伏を余儀なくされた[34]

都市は徹底的な破壊と略奪を受けた。アラブ側の記録によれば、略奪は5日間にわたって続いた。ビザンツ帝国の年代記作家のテオファネスは死者を70,000人と記し、一方でマスウーディーは30,000人と記録している。生き残った人々はカリフが自由に扱うために留め置かれた軍と住民の指導者を除き、軍の指揮官の間で奴隷として分け与えられた。テオフィロスの使節がアモリオンの陥落の知らせとともに帰還することを認めた後、ムウタスィムは都市を徹底的に焼き払い、城壁のみが比較的無傷な状態で残った[35]。略奪品の中には当初ムウタスィムがサーマッラーへ運び、自身の宮殿の入口に備え付けた巨大な鉄の城門があった。その後、恐らく9世紀の終わり頃に城門は持ち出され、ラッカに設置された。ラッカでは964年まで残っていたものの、ハムダーン朝の支配者のサイフ・アッ=ダウラ英語版が門を取り除いて自身の本拠地であるアレッポキンナスリーン門英語版に設置した[36]


注釈

  1. ^ a b ホッラミーヤまたはホッラムディーニーヤとも呼ばれるホッラム教はイスラームとペルシアの古い宗教的要素が混淆した一連の宗教運動の総称である。その起源は6世紀のマズダク教運動に求められ、一部はアッバース革命アブー・ムスリムに従ったが、そのアブー・ムスリムがカリフのマンスール(在位:754年 - 775年)によって殺害されると、9世紀半ばまで続く一連の反乱を引き起こした。バーバクの反乱はホッラム教徒が起こした最後の大規模な反乱であった[7]
  2. ^ a b テオフィロスの837年の遠征とムウタスィムの報復攻撃の双方について記録されている軍隊の規模は通常とは言い難い規模である。ジョン・バグネル・ベリーやウォーレン・トレッドゴールドのような一部の歴史家は、タバリーとシリア人ミカエルの数字をある程度正確なものとして受け入れている[9]。しかし、中世の野戦軍の規模は総勢10,000人を超えることは滅多になく、ビザンツ軍やアラブ軍に関する当時の論述や解説書では軍隊の規模は通常4,000人から5,000人程度であったことが示唆されているため、現代の他の研究者はこの数字を疑わしいものとして見ている。10世紀後半のビザンツ軍の規模が継続的な拡大傾向にあった時期でさえ、ビザンツ帝国の軍事解説書英語版では、25,000人の軍隊を非常に大きく、皇帝が直接率いるのにふさわしい規模であると記述している。これらの記録を比較すると、9世紀の時点でビザンツ帝国が利用できた兵力の合計は、名目上はおよそ100,000人から120,000人の規模であったと推定されている。詳しい分析は、Whittow 1996, pp. 181–193とHaldon 1999, pp. 101–103を参照のこと。
  3. ^ ソゾペトラまたはアルサモサタがムウタスィムの出生地であるとする記述はビザンツ側の史料にのみ見られる。この記述は恐らくテオフィロスの出生地であったと考えられているアモリオンと同様の位置付けを与えることでアモリオンの陥落の影響を和らげ、立場を同等のものとするために後から意図的に創作された話であるとして、ほとんどの学者からは否定されている[11]
  4. ^ ただし、太田 2009, p. 119はアモリオンの捕虜の交換が行われた時期を845年としている。

出典

  1. ^ Treadgold 1988, p. 298.
  2. ^ Treadgold 1988, pp. 444–445 (Note #415).
  3. ^ Treadgold 1988, p. 297.
  4. ^ Ivison 2007, p. 31; Treadgold 1988, p. 303.
  5. ^ Treadgold 1988, pp. 272–280.
  6. ^ a b Treadgold 1988, pp. 283, 287–288; Whittow 1996, pp. 152–153.
  7. ^ バーキー 2013, pp. 226–227.
  8. ^ Treadgold 1988, pp. 280–283; Treadgold 1997, p. 439; Venetis 2005.
  9. ^ Bury 1912, p. 263 (Note #3); Treadgold 1988, p. 441 (Note #406).
  10. ^ Bury 1912, pp. 259–260; Treadgold 1988, pp. 286, 292–294; Vasiliev 1935, pp. 137–141.
  11. ^ Bury 1912, p. 262 (Note #6); Kiapidou 2003, Note 1; Treadgold 1988, p. 440 (Note #401); Vasiliev 1935, p. 141.
  12. ^ Bury 1912, pp. 261–262; Kiapidou 2003, Chapter 1; Treadgold 1988, pp. 293–295; Vasiliev 1935, pp. 141–143.
  13. ^ Kiapidou 2003, Chapter 1; Vasiliev 1935, p. 143.
  14. ^ Vasiliev 1935, p. 144; 太田 2009, p. 118.
  15. ^ Bury 1912, p. 263 (Note #3); Treadgold 1988, p. 297; Vasiliev 1935, p. 146.
  16. ^ Bury 1912, pp. 262–263; Treadgold 1988, p. 297; Vasiliev 1935, pp. 144–146.
  17. ^ Bury 1912, pp. 262–263; Kazhdan 1991, pp. 79, 1428, 2066; Whittow 1996, p. 153.
  18. ^ Bury 1912, p. 262; Ivison 2007, p. 26; Kazhdan 1991, p. 79.
  19. ^ Whittow 1996, p. 215.
  20. ^ Kiapidou 2003, Chapter 2.1; Treadgold 1988, pp. 297, 299; Vasiliev 1935, pp. 146, 148.
  21. ^ Bury 1912, pp. 263–264; Kiapidou 2003, Chapter 2.1; Treadgold 1988, p. 298; Vasiliev 1935, pp. 146–147.
  22. ^ Bury 1912, p. 264; Treadgold 1988, p. 298; Vasiliev 1935, pp. 149–151.
  23. ^ Bury 1912, pp. 264–265; Kiapidou 2003, Chapter 2.2; Treadgold 1988, pp. 298–300; Vasiliev 1935, pp. 154–157.
  24. ^ Kiapidou 2003, Chapter 2.2; Treadgold 1988, pp. 300–302; Vasiliev 1935, pp. 158–159; 中谷 1997, p. 90
  25. ^ Bury 1912, p. 266; Kiapidou 2003, Chapter 2.2; Treadgold 1988, p. 302; Vasiliev 1935, pp. 152–154, 158–160.
  26. ^ Bury 1912, p. 267; Vasiliev 1935, pp. 160–161.
  27. ^ Bury 1912, pp. 266–267; Rekaya 1977, p. 64; Vasiliev 1935, p. 160.
  28. ^ Bury 1912, p. 267; Treadgold 1988, p. 302; Vasiliev 1935, pp. 161–163.
  29. ^ Bury 1912, p. 268; Treadgold 1988, p. 302; Vasiliev 1935, pp. 163–164.
  30. ^ Bury 1912, p. 268; Vasiliev 1935, pp. 164–165.
  31. ^ Vasiliev 1935, pp. 165–167.
  32. ^ Kiapidou 2003, Note 19.
  33. ^ Bury 1912, pp. 268–269; Treadgold 1988, pp. 302–303; Vasiliev 1935, pp. 167–168.
  34. ^ Bury 1912, pp. 269–270; Treadgold 1988, p. 303; Vasiliev 1935, pp. 169–170.
  35. ^ Ivison 2007, pp. 31, 53; Rekaya 1977, p. 64; Treadgold 1988, p. 303; Vasiliev 1935, pp. 170–172.
  36. ^ Meinecke 1995, pp. 411, 412.
  37. ^ Bury 1912, p. 270; Kiapidou 2003, Chapter 2.3; Treadgold 1988, p. 303; Vasiliev 1935, pp. 172–173, 175; 太田 2009, p. 119.
  38. ^ Bury 1912, p. 272; Treadgold 1988, pp. 303–304; Vasiliev 1935, pp. 174–175.
  39. ^ Bury 1912, p. 273; Vasiliev 1935, pp. 177–187.
  40. ^ Bury 1912, pp. 273–274; Vasiliev 1935, pp. 175–176, 192–193, 198–204.
  41. ^ Treadgold 1988, pp. 304, 445 (Note #416).
  42. ^ Bury 1912, pp. 271–272; Kazhdan 1991, pp. 79, 800–801.
  43. ^ Bury 1912, pp. 270–271.
  44. ^ Arberry 1965, p. 52.
  45. ^ Kiapidou 2003, Chapter 3; Treadgold 1988, pp. 304, 415.
  46. ^ Christophilopoulou 1993, pp. 248–249.
  47. ^ For an English translation of Abu Tammam's poem, cf. Arberry 1965, pp. 50–62; Canard 1960, p. 449.
  48. ^ Kennedy 2003, pp. 23–26.
  49. ^ Kazhdan 1991, pp. 79–80; Kiapidou 2003, Chapter 3; Treadgold 1988, pp. 304, 313–314; Whittow 1996, p. 153.
  50. ^ Treadgold 1988, pp. 304–305.
  51. ^ Treadgold 1988, pp. 351–359.
  52. ^ Treadgold 1988, p. 305; Whittow 1996, pp. 153–154.






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