アモリオンの戦い アモリオンの戦いの概要

アモリオンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 07:24 UTC 版)

アモリオンの戦い
アラブ・ビザンツ戦争

アッバース朝軍によるアモリオンの包囲を描いた『マドリード・スキュリツェス英語版』の細密画
838年8月
場所アモリオン
結果 アッバース朝軍によってアモリオンは陥落し、徹底的な破壊と略奪を受けた。
衝突した勢力
ビザンツ帝国 アッバース朝
指揮官
テオフィロス
アエティオス
テオドロス・クラテロス
ボイディツェス
ムウタスィム
ハイダル・ブン・カーウース・アル=アフシーン英語版
アブー・ジャアファル・アシナース英語版
ジャアファル・ブン・ディーナール・アル=ハイヤート英語版
ウジャイフ・ブン・アンバサ
イーターフ・アル=ハザリー英語版
戦力
野戦軍:約40,000人[1]
アモリオンの守備兵:約30,000人[2]
80,000人[3]
被害者数
軍人と市民合わせて30,000人から70,000人[4] 不明

ビザンツ帝国とアラブ人はおよそ2世紀にわたって戦いを続けていたが、ビザンツ帝国はアッバース朝がホッラム教徒英語版[注 1]の反乱への対応を強いられていた状況を利用して837年にビザンツ皇帝テオフィロスの下でアラブ側の国境地帯を襲撃した。これに対してアッバース朝のカリフムウタスィムは当時のビザンツ帝国で最も重要な都市の一つであった小アジア西部のアモリオンを標的として838年に自ら軍隊を率い報復攻撃に乗り出した。アッバース朝軍は部隊を二手に分けて小アジアの東部と南部から侵攻し、東部から侵攻した部隊はテオフィロスが率いるビザンツ軍をアンゼンの戦い英語版で破った。その後、二手に分かれていた部隊はアンキュラで合流し、都市を略奪した後に南方へ向かって8月1日にアモリオンに到達した。一方のテオフィロスはペルシア人部隊の反乱に直面し、さらに自分の戦死の噂によって新しい皇帝が擁立される可能性があったため、コンスタンティノープルへ帰還することを余儀なくされた。

アモリオンは強固な要塞であり、強力な守備隊を擁していたものの、反逆者が城壁の弱点となっている場所を敵側へ漏洩した。アッバース朝軍はその場所に攻撃を集中させ、城壁の一部の破壊に成功した。そして破壊された城壁の場所を受け持っていたビザンツ軍の指揮官のボイディツェスが自軍を裏切る意図を持って単独でカリフとの交渉を試み、警備体制を解いたまま自分の持ち場から立ち去った。アッバース朝軍はこの状況を利用して城内へ突入し、都市の占領に成功した。アモリオンは徹底的な破壊と略奪を受け、多くの住民が殺害された。また、生き残った者も奴隷として連行された。生存者の多くは841年に停戦協定が結ばれた後に捕虜交換によって解放されたが、高い地位にあった公職者は当時のアッバース朝の首都であったサーマッラーへ連行され、イスラームへの改宗を拒否したために数年後に処刑された。その後、これらの処刑された人々はアモリオンの42人の殉教者英語版として知られるようになった。

この戦役はビザンツ帝国とアラブ人の長い戦いの歴史の中でも最も破壊的な出来事の一つとなり、多くの文学作品のモチーフにもなった。また、軍事力の面でビザンツ帝国が受けた影響はその被害にもかかわらず限定的だったが、一方でテオフィロスが熱心に支持していたイコノクラスム(聖像破壊運動)の神学的な教義は信用を失った。イコノクラスムの正当性は軍事的な成功に大きく依存していたため、アモリオンの陥落はテオフィロスが842年に死去した直後のイコノクラスムの放棄に決定的な影響を与えることになった。


注釈

  1. ^ a b ホッラミーヤまたはホッラムディーニーヤとも呼ばれるホッラム教はイスラームとペルシアの古い宗教的要素が混淆した一連の宗教運動の総称である。その起源は6世紀のマズダク教運動に求められ、一部はアッバース革命アブー・ムスリムに従ったが、そのアブー・ムスリムがカリフのマンスール(在位:754年 - 775年)によって殺害されると、9世紀半ばまで続く一連の反乱を引き起こした。バーバクの反乱はホッラム教徒が起こした最後の大規模な反乱であった[7]
  2. ^ a b テオフィロスの837年の遠征とムウタスィムの報復攻撃の双方について記録されている軍隊の規模は通常とは言い難い規模である。ジョン・バグネル・ベリーやウォーレン・トレッドゴールドのような一部の歴史家は、タバリーとシリア人ミカエルの数字をある程度正確なものとして受け入れている[9]。しかし、中世の野戦軍の規模は総勢10,000人を超えることは滅多になく、ビザンツ軍やアラブ軍に関する当時の論述や解説書では軍隊の規模は通常4,000人から5,000人程度であったことが示唆されているため、現代の他の研究者はこの数字を疑わしいものとして見ている。10世紀後半のビザンツ軍の規模が継続的な拡大傾向にあった時期でさえ、ビザンツ帝国の軍事解説書英語版では、25,000人の軍隊を非常に大きく、皇帝が直接率いるのにふさわしい規模であると記述している。これらの記録を比較すると、9世紀の時点でビザンツ帝国が利用できた兵力の合計は、名目上はおよそ100,000人から120,000人の規模であったと推定されている。詳しい分析は、Whittow 1996, pp. 181–193とHaldon 1999, pp. 101–103を参照のこと。
  3. ^ ソゾペトラまたはアルサモサタがムウタスィムの出生地であるとする記述はビザンツ側の史料にのみ見られる。この記述は恐らくテオフィロスの出生地であったと考えられているアモリオンと同様の位置付けを与えることでアモリオンの陥落の影響を和らげ、立場を同等のものとするために後から意図的に創作された話であるとして、ほとんどの学者からは否定されている[11]
  4. ^ ただし、太田 2009, p. 119はアモリオンの捕虜の交換が行われた時期を845年としている。

出典

  1. ^ Treadgold 1988, p. 298.
  2. ^ Treadgold 1988, pp. 444–445 (Note #415).
  3. ^ Treadgold 1988, p. 297.
  4. ^ Ivison 2007, p. 31; Treadgold 1988, p. 303.
  5. ^ Treadgold 1988, pp. 272–280.
  6. ^ a b Treadgold 1988, pp. 283, 287–288; Whittow 1996, pp. 152–153.
  7. ^ バーキー 2013, pp. 226–227.
  8. ^ Treadgold 1988, pp. 280–283; Treadgold 1997, p. 439; Venetis 2005.
  9. ^ Bury 1912, p. 263 (Note #3); Treadgold 1988, p. 441 (Note #406).
  10. ^ Bury 1912, pp. 259–260; Treadgold 1988, pp. 286, 292–294; Vasiliev 1935, pp. 137–141.
  11. ^ Bury 1912, p. 262 (Note #6); Kiapidou 2003, Note 1; Treadgold 1988, p. 440 (Note #401); Vasiliev 1935, p. 141.
  12. ^ Bury 1912, pp. 261–262; Kiapidou 2003, Chapter 1; Treadgold 1988, pp. 293–295; Vasiliev 1935, pp. 141–143.
  13. ^ Kiapidou 2003, Chapter 1; Vasiliev 1935, p. 143.
  14. ^ Vasiliev 1935, p. 144; 太田 2009, p. 118.
  15. ^ Bury 1912, p. 263 (Note #3); Treadgold 1988, p. 297; Vasiliev 1935, p. 146.
  16. ^ Bury 1912, pp. 262–263; Treadgold 1988, p. 297; Vasiliev 1935, pp. 144–146.
  17. ^ Bury 1912, pp. 262–263; Kazhdan 1991, pp. 79, 1428, 2066; Whittow 1996, p. 153.
  18. ^ Bury 1912, p. 262; Ivison 2007, p. 26; Kazhdan 1991, p. 79.
  19. ^ Whittow 1996, p. 215.
  20. ^ Kiapidou 2003, Chapter 2.1; Treadgold 1988, pp. 297, 299; Vasiliev 1935, pp. 146, 148.
  21. ^ Bury 1912, pp. 263–264; Kiapidou 2003, Chapter 2.1; Treadgold 1988, p. 298; Vasiliev 1935, pp. 146–147.
  22. ^ Bury 1912, p. 264; Treadgold 1988, p. 298; Vasiliev 1935, pp. 149–151.
  23. ^ Bury 1912, pp. 264–265; Kiapidou 2003, Chapter 2.2; Treadgold 1988, pp. 298–300; Vasiliev 1935, pp. 154–157.
  24. ^ Kiapidou 2003, Chapter 2.2; Treadgold 1988, pp. 300–302; Vasiliev 1935, pp. 158–159; 中谷 1997, p. 90
  25. ^ Bury 1912, p. 266; Kiapidou 2003, Chapter 2.2; Treadgold 1988, p. 302; Vasiliev 1935, pp. 152–154, 158–160.
  26. ^ Bury 1912, p. 267; Vasiliev 1935, pp. 160–161.
  27. ^ Bury 1912, pp. 266–267; Rekaya 1977, p. 64; Vasiliev 1935, p. 160.
  28. ^ Bury 1912, p. 267; Treadgold 1988, p. 302; Vasiliev 1935, pp. 161–163.
  29. ^ Bury 1912, p. 268; Treadgold 1988, p. 302; Vasiliev 1935, pp. 163–164.
  30. ^ Bury 1912, p. 268; Vasiliev 1935, pp. 164–165.
  31. ^ Vasiliev 1935, pp. 165–167.
  32. ^ Kiapidou 2003, Note 19.
  33. ^ Bury 1912, pp. 268–269; Treadgold 1988, pp. 302–303; Vasiliev 1935, pp. 167–168.
  34. ^ Bury 1912, pp. 269–270; Treadgold 1988, p. 303; Vasiliev 1935, pp. 169–170.
  35. ^ Ivison 2007, pp. 31, 53; Rekaya 1977, p. 64; Treadgold 1988, p. 303; Vasiliev 1935, pp. 170–172.
  36. ^ Meinecke 1995, pp. 411, 412.
  37. ^ Bury 1912, p. 270; Kiapidou 2003, Chapter 2.3; Treadgold 1988, p. 303; Vasiliev 1935, pp. 172–173, 175; 太田 2009, p. 119.
  38. ^ Bury 1912, p. 272; Treadgold 1988, pp. 303–304; Vasiliev 1935, pp. 174–175.
  39. ^ Bury 1912, p. 273; Vasiliev 1935, pp. 177–187.
  40. ^ Bury 1912, pp. 273–274; Vasiliev 1935, pp. 175–176, 192–193, 198–204.
  41. ^ Treadgold 1988, pp. 304, 445 (Note #416).
  42. ^ Bury 1912, pp. 271–272; Kazhdan 1991, pp. 79, 800–801.
  43. ^ Bury 1912, pp. 270–271.
  44. ^ Arberry 1965, p. 52.
  45. ^ Kiapidou 2003, Chapter 3; Treadgold 1988, pp. 304, 415.
  46. ^ Christophilopoulou 1993, pp. 248–249.
  47. ^ For an English translation of Abu Tammam's poem, cf. Arberry 1965, pp. 50–62; Canard 1960, p. 449.
  48. ^ Kennedy 2003, pp. 23–26.
  49. ^ Kazhdan 1991, pp. 79–80; Kiapidou 2003, Chapter 3; Treadgold 1988, pp. 304, 313–314; Whittow 1996, p. 153.
  50. ^ Treadgold 1988, pp. 304–305.
  51. ^ Treadgold 1988, pp. 351–359.
  52. ^ Treadgold 1988, p. 305; Whittow 1996, pp. 153–154.





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