アイザック・メリット・シンガー ヨーロッパでの晩年

アイザック・メリット・シンガー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:39 UTC 版)

ヨーロッパでの晩年

トーキーの墓地にあるシンガーの墓

1863年、I. M. Singer & Co. は財政と経営責任の再編成のため解体され、主な事業は "The Singer Manufacturing Company" が受け継いだ。シンガー自身は日々の経営に関与することはなくなったが、(ヨーロッパ在住ながら)理事会に名を連ねていたし、大株主であった。

彼は再び家族を増やし始めた。最終的に妻イザベラとの間に6人の子をもうけている。過去の複雑な婚姻が原因でニューヨークに戻ることが憚られたため、彼らはパリに移り住み、アメリカに戻ることはなかった。普仏戦争から逃れるためにロンドンに移住し、最後にはトーキー近郊の Paignton に移り、デヴォン海岸を望む大邸宅 Oldway Mansion を建て、そこに住んだ。イザベラとの子以外の子供も何人かそこに呼び寄せている。娘の1人アリス・メリットの結婚式の9日後、「心臓病と気管の炎症」により死亡。遺体はトーキーの墓地に埋葬された。

遺産相続とその後

シンガーは約1億4千万ドルの遺産と、その分配方法を指示する2つの遺言状を残した。メアリー・アンは "Mrs. Singer" は自分だとして裁判を起こした。結局、イザベラが法的な未亡人として認められた。イザベラは1879年、オランダの音楽家 Victor Reubsaet と結婚しパリに移住。1887年に Reubsaet も亡くなると、1891年に Paul Sohège と結婚した。

アイザックの18番目の子ウィナレッタ・シンガーは1887年、22歳のときに Louis de Scey-Montbéliard と結婚。1891年に婚姻の無効が認められ、1893年にはエドモン・ド・ポリニャック公と結婚した。彼女はフランスのアバンギャルド音楽のパトロンとなった。例えばエリック・サティの作曲した Socrate(1918年)は、彼女の依頼によるものだった。彼女はレズビアンでもあり、1923年以降は Violet Trefusis と関係を持つようになった。もう1人の娘イザベル=ブランシュ(1869年生)は Jean, duc Decazes と結婚(娘は Daisy Fellowes)。イザベルは1896年に自殺した。ウィナレッタとイザベルの兄弟パリス・シンガーはイサドラ・ダンカンとの間に子をもうけている。もう1人の兄弟ワシントン・シンガーは University College of the South-West of England の後援者となり、その学校が後にエクセター大学となった。同大学の建物の1つはワシントン・シンガーの名を冠している。


  1. ^ Singer Memories[リンク切れ]
  2. ^ Isaac Merritt Singer (1811-1875), Immigrant Enterpreneurship: German-American Business Biographies, (2015-07-30), https://www.immigrantentrepreneurship.org/entry.php?rec=210 


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