サムラージャ・ラクシュミー・デビーとは? わかりやすく解説

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サムラージャ・ラクシュミー・デビー

(Samrajya Lakshmi Devi から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 09:57 UTC 版)

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サムラージャ・ラクシュミー・デビー
Samrajya Lakshmi Devi
ネパール王妃

出生 1814年
ゴーラクプル
死去 1841年10月6日
ヘタウダ
配偶者 ラジェンドラ・ビクラム・シャハ
子女 スレンドラ、ウペンドラ、デベンドラ
宗教 ヒンドゥー教
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サムラージャ・ラクシュミー・デビー(Samrajya Lakshmi Devi, 1814年頃 - 1841年10月16日)は、ネパール王国の君主ラジェンドラ・ビクラム・シャハの第一正妃。

生涯

1824年2月5日、ネパール王ラジェンドラ・ビクラム・シャハと結婚し[1]、第一正妃なった。王との間には3男をもうけた。

1837年、王妃はビムセン・タパに殺害されたダモダル・パンデの息子ラナ・ジャンガ・パンデを取り立てて、パンデ一族にかけられた罪を許し、財産を返還した[2]。そして、ビムセンにとどめの一撃を刺すため、デベンドラ王子毒殺事件を蒸し返して投獄し、自殺に追い込んだ[3]

王妃はラジェンドラ王を退位させ、自分の息子スレンドラを新王にしようとしたが、王が応じなかった[3]。怒った王妃は王宮を出、王もまたそれを追いかけたため、ランガ・ナート・パウデル、次いでプシュカル・シャハらは相次いで執権を辞任した[4]

その後、ラナ・ジャンガが執権となったが1840年に罷免、ファッテ・ジャンガにとってかわられ、王も退位しなかった[5]。そのため、王はラナ・ジャンガが罷免されたことに抗議し、王宮を出てヴァーラーナシーへ向かったが、イギリスによって入国を拒否された[5]

1841年10月6日、王妃は途中のヘタウダでマラリヤのため死去した[5][6]。王妃の死後、第二正妃のラージャ・ラクシュミー・デビーが権力の中心となった。

脚注

  1. ^ Nepal 7
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.530
  3. ^ a b 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.531
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.532
  5. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.533
  6. ^ Nepal 7

参考文献

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年。 

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