高木守道
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高木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - 2020年1月17日[1])は、岐阜県稲葉郡鏡島村(現:岐阜市)出身[2](愛知県名古屋市生まれ[3])のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
注釈
- ^ ゴロを捕球した二塁手が二塁ベースカバーに回っている遊撃手へ送球する際、体の反転・左回転を省き右掌で送球する技術[10]。
- ^ その後200本塁打は稲葉篤紀、2000本安打は稲葉と駒田徳広も記録。
- ^ その後、石毛宏典・谷繁元信も記録。
- ^ その後中日の生え抜き野手としては谷沢健一・立浪和義・荒木雅博もそれぞれ通算2000本安打を達成している。
- ^ しかし、この1980年にはプロ野球最年長の野村克也も引退しているが、野村・王に次ぐプロ野球選手最年長選手は張本勲であった。
- ^ 板東の著書に記述があり、2011年4月10日放送の「サンデードラゴンズ」でも証言している。
- ^ 板東は「ボールを足でマウンドに蹴り返した」と証言しているが、髙木は「足で止めただけ」と蹴り返したことは否定している。
- ^ この騒動は、関本が翌年太平洋クラブライオンズに移籍する遠因となった。
出典
- ^ a b c d 「ミスタードラゴンズ髙木守道さん死去(78歳) バックトスは永遠に」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年1月18日、紙面から。2020年1月18日閲覧。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。
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- ^ ベースボール・マガジン社 2007, pp. 165–167.
- ^ a b c ベースボール・マガジン社 2007, p. 167.
- 1 高木守道とは
- 2 高木守道の概要
- 3 経歴
- 4 選手としての特徴
- 5 関連情報
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