黒木の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:40 UTC 版)
黒木という地名は室町期より見え、薩摩国祁答院のうちであった。応永7年の渋谷重茂避状に「祁答院内中津川名并黒木村事」とあり、黒木村は渋谷祁答院氏の所領であったが、領主祁答院重茂が中津川名(現在のさつま町中津川)と黒木村を同族の入来院重頼に避渡している。 戦国期には島津氏と渋谷氏は激しく抗争し黒木村にも戦火が及んだ。大村城を攻略した帖佐島津氏の軍によって黒木村と中津村を放火され、焼き払われてしまった。その後文禄4年の三州内所替により、北郷時久が宮之城領主となると黒木村は北郷氏の領有となった。慶長5年に北郷氏が都城に復帰した後は島津忠長の所領となった。
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