養寿寺 (豊田市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 13:29 UTC 版)
養寿寺 | |
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所在地 | 愛知県豊田市花園町屋敷56 |
位置 | 北緯35度00分37.1秒 東経137度04分44.6秒 / 北緯35.010306度 東経137.079056度 |
山号 | 花園山 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
養寿寺(ようじゅじ)は、愛知県豊田市花園町屋敷56にある真宗大谷派の寺院[1]。山号は花園山。本尊は阿弥陀如来[1]。
歴史
古代
天平8年(736年)に行基が花園郷を訪れ、観音像を彫ってこの地に残したという伝承がある[1]。また、平安時代末期には平景清が泊まったとする伝承がある[2]。
栄日坊は観音堂を再興して天台宗の万寿寺とし、地元ではそのまま観音堂と呼ばれていた[2]。なお、伝承によると栄日坊は景清が出家した際の名前である[1]。この観音堂が養寿寺の前身である[2]。江戸生まれの中根七三郎長持が栄日坊の後を継いだ[2]。
中世
応仁年間(1467年~1469年)に蓮如上人が三河国で真宗の布教を行うと、観音堂の住僧は蓮如に帰依して真宗本願寺派に改宗した[2]。天文年間(1532年~1554年)には真定坊と公称するようになり、さらに養寿寺となった[2]。
近世
寛政9年(1797年)には片山吉左エ門を棟梁として本堂が建立された[2]。7世慶芳は豪商の寺田伝兵衛らと交友があり、安政3年(1856年)12月22日には権律師の称号を賜った[1]。寺田伝兵衛家は米穀・肥料・酒造などの事業で成功した家であり、東本願寺の有力な門徒でもあった[3]。
現代
かつて中庭には立派なマツがあったが、マツ枯れの被害に遭って1984年(昭和59年)に枯死した[2]。
境内
- 本堂 - 寄棟造、桟瓦葺。寛政9年(1797年)建立。
- 庫裏 - 切妻造、桟瓦葺。幕末頃建立。
- 書院 - 大正初期建立。
- 観音堂 - 幕末頃建立。
- 鐘楼 - 入母屋造、桟瓦葺。1938年(昭和13年)建立。
- 山門 - 本瓦葺。一間薬医門。
- 水屋 - 切妻造、桟瓦葺。大正初期建立。
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山門
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鐘楼
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梵鐘
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
脚注
参考文献
- 高岡町誌編纂委員会『高岡町誌』豊田市教育委員会、1968年。
- 『豊田市の寺社建築 2 真宗寺院』豊田市教育委員会、1986年。
外部リンク
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