韋弘景とは? わかりやすく解説

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韋弘景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/17 09:00 UTC 版)

韋 弘景(い こうけい、766年 - 831年)は、唐代官僚本貫鄭州陽武県[1][2]

経歴

興道県令の韋堯の子として生まれた。宣州司戸参軍韋嗣立の孫にあたる。貞元年間、進士に及第し、汴滑従事・浙東従事を歴任した[3][4]

元和3年(808年)、弘景は左拾遺に任じられ、集賢殿学士をつとめ、左補闕に転じた。ほどなく翰林学士となった。普潤鎮使の蘇光栄が涇原節度使となり、弘景が詔を起草するにあたって、蘇光栄の功を書き漏らしたため、翰林学士を罷免され、司門員外郎に転じた。吏部員外郎・左司郎中を歴任し、度支郎中に転じた。張仲方が李吉甫を貶めたことから、憲宗の怒りを買い、左遷された。弘景は張仲方と仲が良かったため、連座して綿州刺史に出された。宰相の李夷簡が淮南節度使として出向すると、弘景はその下で節度副使をつとめた。入朝して京兆少尹となり、給事中に転じた[5][4]

長慶元年(821年[6]穆宗駙馬都尉の劉士涇を太僕寺卿として任用しようとしたところ、弘景はその詔書を封還し、劉士涇を非難したため、穆宗の怒りを買って、安南邕管宣撫使として出された[7][8]

弘景は宰相の蕭俛を議論で補佐し、刑部侍郎に任じられた[7][9]。長慶4年(824年)、吏部侍郎に転じた[10]宝暦2年(826年)、陝虢観察使として出向した[11]大和2年(828年)、召還されて尚書左丞に任じられた[12]。大和3年(829年)、礼部尚書に転じた[13]。大和4年(830年)、刑部尚書・東都留守となった[14]

大和5年(831年)5月、死去した。享年は66。尚書左僕射の位を追贈された[15][9]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 2861.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 4228.
  3. ^ 旧唐書 1975, p. 4152.
  4. ^ a b 新唐書 1975, p. 4234.
  5. ^ 旧唐書 1975, pp. 4152–4153.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 485.
  7. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4153.
  8. ^ 新唐書 1975, pp. 4234–4235.
  9. ^ a b 新唐書 1975, p. 4235.
  10. ^ 旧唐書 1975, p. 512.
  11. ^ 旧唐書 1975, p. 519.
  12. ^ 旧唐書 1975, p. 528.
  13. ^ 旧唐書 1975, p. 532.
  14. ^ 旧唐書 1975, p. 540.
  15. ^ 旧唐書 1975, p. 4154.

伝記資料

参考文献




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