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青木正教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 05:10 UTC 版)

 
青木正教
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦元年(1655年[1]
死没 享保10年12月21日1726年1月23日
別名 甚五兵衛(通称)
戒名 日題
墓所 市谷の蓮秀寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川綱豊家継吉宗
甲府藩
氏族 平岡氏、青木氏
父母 平岡道賢、神谷政成娘
青木正寛小長谷重次娘
内山永貞娘
昌邦、教豊
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青木 正教(あおき まさのり)は、江戸時代前期から中期にかけての甲府藩甲府徳川家家臣、江戸幕府旗本。武田氏族大井氏系青木氏の当主。通称は甚五兵衛。旗本時代の家禄は蔵米290俵。青木長国の実の祖父で家系上の曾祖父にあたり、勝海舟幕末大奥御年寄となる瀧山の共通する先祖の1人である。

生涯

平岡道賢と神谷政成の娘との三男として誕生。甲府藩小姓組組頭となる青木正寛の養子となる。養父の隠居で青木家を相続し、徳川綱豊に仕えて甲府藩の小姓組士となり、主君の綱豊が徳川綱吉の養子となると、宝永元年12月12日1705年1月7日)に幕府の焼火間番士に転じて蔵米290俵を賜り、宝永7年(1708年)に大番士となる。

正徳5年(1715年)に大番士を辞して小普請となり、享保10年12月21日(1726年1月23日)に死去。享年71。法名は日題。墓所は市谷の蓮秀寺。家督と家禄は養母の一族で養子の教豊が相続し、実子の昌邦は教豊の養子となる。

系譜

  • 父:平岡道賢 - 源兵衛
  • 母:神谷政成の娘
  • 養父:青木正寛(1632-1707) - 甚平
  • 養母:小長谷重次(九郎右衛門)の娘
  • 正室:内山永貞(七兵衛)の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:青木昌邦 - 青木教豊の養子
  • 養子
    • 男子:青木教豊 - 小長谷時苗(六郎兵衛)の子

脚注

  1. ^ 寛政重修諸家譜にある享年からの逆算

参考文献

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第3』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
    • 寛政重修諸家譜 巻百五十二



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