陳迪 (宣城)
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陳廸(ちん てき、? - 1402年)は明初の官僚。字は景道(けいどう)、寧国府宣城県(現在の安徽省宣城市)の人。
生涯
経書に通じていることから推薦され、侍講となる。洪武24年(1391年)、都を出て山東左参政の任に着き、徳政を敷いた。4年後の洪武28年(1395年)には雲南右布政使に抜擢され、さらに3年後の洪武31年(1398年)には礼部尚書となった[1]。建文2年(1400年)には礼部尚書として知貢挙に任命され、翌3年(1401年)には太子少保をも務めた。
しかし建文4年(1402年)に起こった靖難の変で永楽帝が帝位を簒奪すると、建文帝旧臣への弾圧が始まった(壬午殉難)。陳迪も「奸臣」の一味として、息子の陳風山、陳丹山らとともに凌遅刑に処され、妻も縊死したが、生後5ヶ月の嬰児であった陳珠だけは死を免れた[2]。この時、永楽帝は陳迪の息子の耳を切り取って炒めたものを陳迪の口にねじ込ませた。そしてその味を尋ねたところ、陳迪は「忠臣の息子の肉は甘美なことこの上ありませんな」と答えたという逸話がある[3]。陳迪らの遺体は使用人が埋葬した[2]。その他親族180人余りも廷杖のうえ流刑とされた[要出典]。
瞿景淳は「瞿昆湖太史賛」で陳迪を大いに賛美した[4]。また、成化年間になると寧国府の知府であった塗観が祠を建てて陳迪を祀った[2]。南明の弘光元年(1645年)には太保を追贈された。
脚注
- ^ 『明史』巻141:「陳迪,字景道,宣城人。祖宥賢,明初,從征有功,世撫州守禦百戶,因家焉。迪倜儻有志操。辟府學訓導,為郡草《賀萬壽表》。太祖異之。久之,以通經薦,歷官侍講。出為山東左參政,多惠政。丁內艱。起復,除雲南右布政使。普定、曲靖、烏撒、烏蒙諸蠻煽亂,迪率士兵擊破之,賜金幣。」
- ^ a b c 『明史』巻141:「燕王即帝位,召迪責問,抗聲不屈。命與子鳳山、丹山等六人磔於市。既死,人於衣帶中得詩及《五噫歌》,辭意悲烈。蒼頭侯來保拾其遺骸歸葬。妻管縊死。幼子珠生五月,乳母潛置溝中,得免。八歲,為怨家所訐。成祖宥其死,戍撫寧。尋徙登州,為蓬萊人。洪熙初,赦還鄉,給田產。成化中,寧國知府塗觀建祠祀迪。」
- ^ 『国朝献徴録』巻33:「文廟繼統召公責問,公不屈。與子丹山、鳳山等六人,同咼于市。丹山等哭叫曰:"父親累我輩也!"廸曰:"今日休說這話。"文皇命割其子肉,塞入廸口,令自啖之。因問曰:"好喫否?"廸曰:"這是忠臣孝子肉,香美好喫!"」
- ^ 瞿景淳「瞿昆湖太史賛」:「嗟嗟陈公,宏毅方正。早识高皇,晚承顾命。公之受命,罔择险夷。事之不济,以身殉之。公身虽死,公神在天。激为风霆,凝为山川。公之死节,岂以为名。特报知遇,庶毕生平。大哉。」
参考文献
書籍
- 『明史』巻141
- 『国朝列卿紀』巻39
- 『罪惟録列傳』巻12上
- 『国朝献徵録』巻33
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