鎮秋田城国司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 15:13 UTC 版)
出羽城司・秋田城司の制度的淵源は、蝦夷との戦争が続いていた宝亀11年(780年)に下された決定にある。秋田城の廃止が問題になったとき、太政官は国司の一人を秋田城を維持するために専当させることを命じた。出羽守は出羽の国府にいるべきなので、介以下の誰かが秋田城を担当する。これを鎮秋田城国司といい、出羽介が担任することが多かったが、掾以下が城司に任じられたこともあった。 直接史料にはないが、雄勝城にも似たような制度を考え、庄内平野に出羽国府、秋田平野に秋田城、仙北盆地に雄勝城があって地域を分担する一国二城制が敷かれたと考える説もある。
※この「鎮秋田城国司」の解説は、「秋田城介」の解説の一部です。
「鎮秋田城国司」を含む「秋田城介」の記事については、「秋田城介」の概要を参照ください。
- 鎮秋田城国司のページへのリンク