賀祉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 10:00 UTC 版)
賀 祉(が し、? - 1288年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。益都府益都県の出身。
生涯
賀祉の父の賀進は漣水の平定に功績があった人物で、元帥左監軍として淄州を守った後、千戸に任命されて膠州に駐屯していた[1]。
賀祉は最初質子(トルカク)として宿衛(ケシクテイ)に入り、1269年(至元6年)に父の跡を継いで千戸となり、膠州を守ることとなった。1270年(至元7年)に南宋軍が膠州を攻めてくると、賀祉は守りを固めこれを撃退する功績を挙げた。1273年(至元10年)には500艘からなる水軍を率いて五河口攻めの先鋒となり、撤退時には殿を務めた。以上の功績を南宋遠征軍の総司令であるバヤンが朝廷に報告し、武節将軍の地位を授けられた。またこのころ、泗州を攻めて南宋水軍の船500艘を獲得する功績挙げている[2]。
その後、ベクレミシュとともに入朝し、クビライ・カアンより弓矢・錦衣・鞍勒を下賜され、宣武将軍の号を加えられた。このころ、淮陰・宝応間の南宋軍の糧道を絶つことで投降に追い込み、戦船600艘を得る功績を挙げた。この後、行枢密院の命を受けて宝応の軍事・民事を統括することとなった。1277年(至元14年)には以上の功績により金虎符を下賜され、懐遠大将軍の称号を授けられた[3]。
1283年(至元20年)、建寧路で黄華が反乱を起こすと、軍を率いてこれを捕縛する功績を挙げた。1287年(至元24年)、第二次ベトナム侵攻が始まると、湖広行省の命を受けて思明州に駐屯し、遠征軍への輜重を守った。しかしベトナム遠征が失敗に終わり、敗退した遠征軍が帰還した後、建康路において亡くなった[4]。
脚注
- ^ 『元史』巻166列伝53賀祉伝,「賀祉、益都人。父進、嘗平漣水有功、為元帥左監軍、守淄州。改千戸、守膠州」
- ^ 『元史』巻166列伝53賀祉伝,「祉初以質子入宿衛、至元六年、襲父職為千戸、仍守膠州。七年、宋兵攻膠州、祉固守戦退之。十年、領舟師五百艘為先鋒、攻五河口城。軍還、殿後。時宋兵以巨索横截淮水、号混江龍、祉用大刀断之、却其救兵、清河城遂降。攻高郵・宝応、戦淮陰城下、尸填壕中。丞相伯顔以其功上聞、授武節将軍。攻泗州、獲戦船五百艘還」
- ^ 『元史』巻166列伝53賀祉伝,「従右丞別乞里迷失入朝、帝賜以弓矢・錦衣・鞍勒、加宣武将軍。鎮新城、絶淮陰・宝応糧道、降之、得戦船六百艘及器械。上於行枢密院、遂命領宝応軍民事。十四年、特賜金虎符・懐遠大将軍」
- ^ 『元史』巻166列伝53賀祉伝,「二十年、建寧路黄華反、以所領軍捕之、有功。二十四年、以征交趾請行、湖広行省檄令守輜重、屯思明州。軍還、至建康卒」
参考文献
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