藤原経清の離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 09:01 UTC 版)
この時点で国府の将として衣川の南にいた平永衡と藤原経清は頼義に従っていたが、2人とも頼時の婿であり微妙な立場であった。この時に永衡は陣中できらびやかな銀の兜を着けているのでこれは、敵軍への通牒でないかと永衡を誣告するものがあり、これを信じた頼義によって永衡は殺された。身の危険を感じた経清は、国府襲撃の偽の情報を流して頼義軍が多賀城へ急行している間に安倍頼時の軍に帰従した。この離反のため一時国府の政令がおぼつかなくなるほどで、前九年の役平定に時間を要することとなった。
※この「藤原経清の離反」の解説は、「阿久利川事件」の解説の一部です。
「藤原経清の離反」を含む「阿久利川事件」の記事については、「阿久利川事件」の概要を参照ください。
- 藤原経清の離反のページへのリンク