船越敬祐
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船越 敬祐(ふなこし けいすけ、1780年〈安永9年〉頃 - 1850年〈嘉永3年〉頃[1])は、江戸時代後期の梅毒専門医師[2]。伯耆国会見郡四日市村(現在の鳥取県米子市四日市町[1])出身。号は錦海[3]。
略歴
商家の生まれで、梅毒の研究や治療、医学を学ぶために長崎、京都、大阪を渡り歩き、水銀による治療薬の開発を行った[1]。
梅毒専門医師となったきっかけとして、梅毒に罹った父を29歳で、母を44歳で亡くしており、自身も梅毒に苦しみ、水銀の治療薬によって回復することができたためと語っている[4]。
また、接種実験の為に梅毒に感染した遊女と交わったことがある。性行の一ヶ月後、梅毒に罹患したが、自身で開発した治療薬「延寿丸」を摂取し完治したと記している[5]。これが事実であるならば、梅毒に二度罹患し、二度完治したということになる。
このような梅毒の経験や症例、治療法をまとめた書籍を出版し、庶民の啓発へと繋げた[1][注釈 1]。著書内では「延寿丸」の宣伝も行なっていた[6]。
著書
- 「黴瘡雑話」 文政7年
- 「妙薬奇覧」 文政10年
- 「黴瘡瑣談」 天保2年
- 「黴瘡軍談」 天保9年
- 「黴瘡茶談」 天保14年
脚注
注釈
- ^ 『黴瘡茶談』では自身の梅毒罹患時の経験、担当した梅毒患者の症例、その治療法や治療薬を紹介している。
出典
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