船越敬祐とは? わかりやすく解説

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船越敬祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 13:37 UTC 版)

船越 敬祐(ふなこし けいすけ、1780年安永9年〉頃 - 1850年嘉永3年〉頃[1])は、江戸時代後期の梅毒専門医師[2]伯耆国会見郡四日市村(現在の鳥取県米子市四日市町[1])出身。号は錦海[3]

略歴

商家の生まれで、梅毒の研究や治療、医学を学ぶために長崎、京都、大阪を渡り歩き、水銀による治療薬の開発を行った[1]

その後、天保年間には大阪・船場に梅毒専門を開業した[1]

梅毒専門医師となったきっかけとして、梅毒に罹った父を29歳で、母を44歳で亡くしており、自身も梅毒に苦しみ、水銀の治療薬によって回復することができたためと語っている[4]

また、接種実験の為に梅毒に感染した遊女と交わったことがある。性行の一ヶ月後、梅毒に罹患したが、自身で開発した治療薬「延寿丸」を摂取し完治したと記している[5]。これが事実であるならば、梅毒に二度罹患し、二度完治したということになる。

このような梅毒の経験や症例、治療法をまとめた書籍を出版し、庶民の啓発へと繋げた[1][注釈 1]。著書内では「延寿丸」の宣伝も行なっていた[6]

著書

  • 「黴瘡雑話」 文政7年
  • 「妙薬奇覧」 文政10年
  • 「黴瘡瑣談」 天保2年
  • 「黴瘡軍談」 天保9年
  • 「黴瘡茶談」 天保14年


脚注

注釈

  1. ^ 『黴瘡茶談』では自身の梅毒罹患時の経験、担当した梅毒患者の症例、その治療法や治療薬を紹介している。

出典

  1. ^ a b c d e 鳥取県大百科事典」国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ 因伯くすり雑考 1」国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 日本医史学雑誌 22(4)(1404)」国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 黴瘡軍談」国書データベース
  5. ^ 黴瘡茶談」城西大学水田記念図書館
  6. ^ 黴瘡茶談」城西大学水田記念図書館



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