耶律解里とは? わかりやすく解説

耶律解里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 04:36 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

耶律解里(やりつ かいり、生没年不詳)は、(契丹)の政治家軍人は潑単。契丹突呂不部の人。

経歴

若くして耶律堯骨(後の遼の太宗)の麾下に属し、抜擢されて軍校となった。天顕年間、後唐定州を攻め落とすと、解里は後唐の捕虜となった。

天顕11年(936年)、後晋高祖が即位すると、帰国することができた。太宗はその罪を許し、御史大夫に任じた。

会同9年(946年)、太宗が後晋を攻め、軍が滹沱河にいたると、解里は中渡橋を奪い、後晋の将の杜重威を降伏させた。太宗が解里と降将の張彦沢に命じて騎兵三千で河南を攻略させると、抵抗する者もなかったという。開封に入城すると、解里らは後晋の石重貴の身柄を開封に移させた。張彦沢が殺人・掠奪をほしいままにし、宮廷を乱したが、解里はこれを制することができず、開封の民心は騒然とし、恨みを抱かない者はなかった。太宗が開封に入ると、張彦沢の罪を数えて、市において斬刑に処すると、開封の人々は大喜びした。解里もまた問責されたが、まもなく許された。

天禄年間、守太子太傅の位を加えられた。応暦初年、突呂不部に令穏が置かれると、解里は代々その職を世襲することとされた。

伝記資料

  • 遼史』巻76 列伝第6




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「耶律解里」の関連用語

1
8% |||||

耶律解里のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



耶律解里のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの耶律解里 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS