篠原得寿とは? わかりやすく解説

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篠原得寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 01:58 UTC 版)

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篠原 得寿(しのはら ありひさ、宝暦7年(1757年) - 天保9年(1838年8月)は、江戸時代後期の加賀藩士。人持組・篠原本家第7代当主。通称は弥助。石高は4000石。家紋左三つ巴菩提寺曹洞宗桃雲寺で、戒名は聯命院殿天然得寿居士。

正室は、加賀八家村井長穹の娘、芳樹院殿聯光智苗大姉。

生涯

父は第6代当主で加賀藩家老・世子御用主附の篠原保之。母は加賀八家前田孝貞の次男、前田孝和[1]の娘。寛政9年(1797年)7月、定火消役となる。病弱ではあったが、長生きした。天保9年(1838年)8月に死去。桃雲寺で葬儀が執り行われ、野田山墓地に葬られた。

脚注

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  1. ^ 別称、勘解由。人持組・前田勘解由家初代。

参考文献




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