秦彦
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秦 彦(しん げん、生年不詳 - 888年)は、唐代の軍人。もとの名は立。本貫は徐州[1][2]。
経歴
秦立は兵卒として、徐州の軍に属した。乾符年間、盗みの罪により獄に繋がれ、処刑されそうになったところ、夢のお告げに従って脱獄逃亡し、彦と改名した。秦彦は100人ほどを集めて、下邳県令を殺し、その財産や装備を奪って黄巣の軍に入った。黄巣の兵が淮南で敗れると、秦彦は許勍とともに高駢に降伏し、和州刺史に任じられた。中和2年(882年)、宣歙観察使の竇潏が病に伏すと、秦彦は兵を率いて宣州を襲撃して奪取した。竇潏に代わって宣歙観察使を称し、朝廷もこれを追認した[1][2]。
光啓3年(887年)、揚州の牙将の畢師鐸が淮南節度使の高駢を捕らえると、外敵の来攻を恐れて、秦彦を迎えようとした。秦彦は池州刺史の趙鍠を知宣州事として召し出し、自ら軍を率いて揚州に入った。畢師鐸は秦彦を淮南節度使に推挙した[1][3]。
5月、寿州刺史の楊行密が兵を率いて秦彦を攻め、揚州を包囲した。秦彦は秦稠と畢師鐸に命じて精鋭8000を与えて出戦させたが、楊行密に敗れて、秦稠は戦死した。秦彦は蘇州刺史の張雄に救援を求めた。張雄は兵を率いて来援し、東塘に駐屯した。揚州は半年のあいだ重囲の下に置かれ、城中は人馬の食糧が尽き、草の根や木の実を齧って命をつないだが、これもまた食い尽くした。城中の死者は10人中6・7におよんだ。張雄の軍には食糧が豊富だったので、揚州城中と交易を約束した。金1斤や通犀帯1本が米5升と交換された。張雄の軍は財貨を得ると、戦わずに去っていった。9月、畢師鐸が出戦したが、また敗れた。秦彦が尼に神意を問わせると、「逃げるが上計なり」との答えを得た。10月、秦彦は畢師鐸とともに包囲を突破して孫儒に投降した[4][5]。光啓4年(888年)1月、畢師鐸とともに高郵で孫儒に斬られた[6][7]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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