猪熊兼古とは? わかりやすく解説

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猪熊兼古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/27 16:19 UTC 版)

 
猪熊 兼古
時代 江戸時代前期
生誕 1602年慶長7年)[注釈 1]
死没 1678年延宝6年)
改名 兼之→兼古
別名 千倉
官位 従五位下神祇権少副
氏族 卜部猪熊家
兼魚
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猪熊 兼古(いのくま かねふる)は、江戸時代前期に活動した公家神職国学者[1]。第28世平野社[2]猪熊千倉(いのくま ちくら)の名で知られている。官位は従五位下神祇権少副

生涯

世襲職の侵食と活路

現在の京都に生まれる[1]。初名は兼之(かねゆき)[2]。一族世襲職として平野社預に就任したが、西洞院時慶が平野社再興の折にこの世襲職を妨害して奪い、兼古は預職を辞した[2]

承応2年(1653年)、伊予宇和島藩和霊神社創建に関与する[2]

頼重・光圀兄弟の崇敬

初代高松藩松平頼重は、寛文4年(1664年)に兼古を招き、白鳥神社(現・東かがわ市鎮座)の初代宮司を務める[1]。その信の篤さから、大名クラスの邸宅「猪熊家住宅」を拝領する[1]

頼重の同母弟・徳川光圀は、寛文7年(1667年)に水戸藩領内の神職、田所出羽・寺門兵庫の二人に対する神典伝授を依頼している[2]。さらに、『大日本史』の編纂に関連し、古典について幾度も諮問しており[2]、息子の兼魚と共にこれに協力している[1]

寛文12年(延宝元年、1673年)正月、隠居した頼重は聴徳院で神仏儒の典籍について聴講しているが、その初日に講師として招かれ、『日本書紀』について講義したという[2]

延宝7年(1678年)、京都に於いて行年77で卒去した[2]。遺骸は浄福寺鐘楼の下に埋められ、墓は造営されなかったという[2]

脚注

注釈

  1. ^ 猪熊全壽 1984, p. 88では生年不詳とあるが、没年及び猪熊兼年 2002, p. 99記載の行年(77歳)から逆算。

出典

  1. ^ a b c d e 猪熊全壽 1984, p. 88.
  2. ^ a b c d e f g h i 猪熊兼年 2002, p. 99.

参考文献

  • 猪熊全壽「猪熊千倉」『香川県大百科事典』四国新聞社、1984年4月。 
  • 猪熊兼年「十 宮司 総代役員名簿」『白鳥神社誌』坂口友太郎・猪熊兼年共著、白鳥神社、2002年。 

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