浅野均一とは? わかりやすく解説

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浅野均一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/30 14:34 UTC 版)

浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師陸上競技指導者、スポーツ行政官。 昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。 荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士

経歴

1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。 慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。

大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した[1]

戦後の活動と功績

第二次世界大戦後の混乱期にあってもスポーツと医療の両分野で活動を続け、1946年(昭和21年)に東京都杉並区に荻窪病院を開業。院長、後に理事長として地域医療の発展に貢献した。

また同年、日本陸上競技連盟の理事長に就任し、日本の国際競技復帰の先頭に立つ。 アジア競技大会(アジア大会)やオリンピック大会への日本代表派遣の交渉・調整を担い、国際陸連(IAAF)評議員や日本オリンピック委員会(JOC)委員も歴任。

受賞歴

  • 日本陸連 功労賞(1951年)[2]
  • JOCスポーツ賞 オリンピック・オーダー銀賞(1984年) - オリンピックへの長年の貢献を評価され、死去直前に授与された[3]

人物と評価

浅野は、医師としての専門性とスポーツ指導者としての実践力を併せ持ち、「スポーツと医療の統合」を先駆的に体現した人物として知られる。 戦前・戦後を通じて、日本の陸上競技の普及・国際化に多大な貢献を残した。

脚注

  1. ^ *運動年鑑 大正12年度(p283)
  2. ^ 日本陸連の栄章 日本陸連ホームページ 2025年4月30日閲覧
  3. ^ オリンピックオーダー JOCホームページ 2025年4月30日閲覧

参考文献

  • 『朝日日本歴史人物事典』
  • 『20世紀日本人名事典』[要文献特定詳細情報]

関連項目




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