毛内茂幹とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 毛内茂幹の意味・解説 

毛内茂幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/09 08:29 UTC 版)

 
毛内 茂幹
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 天保8年7月28日1837年8月28日
別名 有右衛門、雲林、辰次郎、左門次郎、春秋庵、子誉
弘前藩
氏族 桓武平氏千葉氏流 毛内氏
父母 父:茂粛
兄弟 茂幹、石山雅朝
毛内裕胤

毛内 茂幹(もうない しげもと)は、江戸時代後期の弘前藩の武士。

生涯

天明2年(1782年)、父茂粛が隠居し、家督300石を継いだ。寛政2年(1790年)より諸手足頭、持筒足軽頭、大組武頭、持槍奉行などを歴任した。同10年(1798年)より大目付、後に用人となる。文化3年(1806年)に留守居組頭となった。同8年(1811年)に隠居し、剃髪した。号は雲林。

幼少より絵画や和漢、地理、暦法、茶道、華道、書道など多彩な分野に才能を示した。特に絵画は江戸で独学で学び、後に南画を習得した。津軽の南画の始祖といわれている。また邸内に春秋庵という庵を作り、身分の貴賤に捕われず、風流を楽しんだ。谷文晁や比良野貞彦と交流し、門下生も数十人を超えていた。主な門下生として、松山雲章、工藤五凰、平尾魯仙、片谷楽斎、工藤立凰、矢部義貞など。後に溝城茂として、諸国を廻り、紀行画も多数残した。また、三上隆圭、石山月澗らと山水画も描いている。孫は新選組隊士の毛内有之助

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

毛内茂幹のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毛内茂幹のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの毛内茂幹 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS