檜山御前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 06:02 UTC 版)
秀愛の主君・南部信直が出羽の安東愛季と講和を結んだ際、娘を愛季の弟・忠次郎秀隆へ嫁がせた。しかし、秀隆が天正15年(1587年)に病死し子供もなかったため実家の三戸へ戻され、檜山御前と称されて元和六年(1621年)まで生きた。「奥南落穂集」によれば、この女性は信直の娘ではなく、実は秀愛の娘であったという。
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