松平玄成
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 寛永9年7月14日(1632年8月29日) |
別名 | 十三郎、八郎左衛門[1] |
戒名 | 利慶源俊 |
主君 | 徳川家康→徳川頼宣 |
氏族 | 深溝松平家 |
父母 | 父:松平伊忠、母:鵜殿長持次女 |
兄弟 | 家忠、忠勝、伊長、玄成、松意、 ちいは、おさち、萬松院、おいち |
松平 玄成(まつだいら はるしげ、生年不明 - 寛永9年7月14日(1632年8月29日))は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。深溝松平家・松平伊忠の四男[2]。
人物
3代当主・松平伊忠の四男として誕生。天正10年6月2日(1582年6月21日)に徳川家康らとともに河内へ滞在し、小姓として伊賀越えに随行している[3][4]。
後に、家康の命により紀州徳川家・徳川頼宣の家臣となった。[1]。
脚注
参考文献
- 川崎文隆『徳川家康・伊賀越えの危難』(鳥影社、1985)
- 愛知県史: 織豊 1-4 - 574p(1999)
- 『徳川家康』 192p(1983)[要文献特定詳細情報]
- 『家康と松平一族』 安城市歴史博物館編集(2021年発行) P.38~42深溝家
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