松平信久 (篠山藩嫡子)とは? わかりやすく解説

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松平信久 (篠山藩嫡子)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 05:48 UTC 版)

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松平信久
時代 江戸時代前期
生誕 寛永6年(1629年
死没 慶安5年4月8日1652年5月15日
別名 千熊[1]、勘四郎[1]
戒名 玄融院清雲浄安[1]
墓所 高野山浄真院[1]
官位 従五位下伯耆守
丹波篠山藩世嗣
氏族 藤井松平家
父母 父:松平忠国、母:戸田氏鉄の娘
兄弟 信久信之信重忠栄内藤頼長正室、松浦鎮信正室、翠松院、酒井忠興室、本多忠将正室、善法寺要清室、栄昌院
青山幸成の娘
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松平 信久(まつだいら のぶひさ)は、江戸時代前期の丹波国篠山藩の世嗣。

生涯

寛永6年(1629年)、篠山藩主松平忠国の長男として誕生した[1]。母は戸田氏鉄の娘[1]

寛永12年(1635年)12月1日、忠邦の嗣子として7歳で徳川家光に拝謁[1]。寛永20年(1643年)12月29日、従五位下伯耆守に叙任される[1]

慶安5年(1652年)4月8日、父に先立って死去した[1]。享年24[1]。曾祖父にあたる松平信一と同じく、高野山の浄真院に葬られた[1]。同母弟の信之が代わって嫡子となり、次期藩主となった[1]

系譜

正室は青山幸成の娘[1][2]。信久の死後、山口重直に再嫁した[2]

寛政重修諸家譜』によれば、子はいない[1]

脚注

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注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第七、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.39
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七百二十八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.920

参考文献

  • 『寛政重修諸家譜』巻第七
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/29
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会)



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