李謜
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李 謜(り げん、782年 - 799年)は、唐の皇族。文敬太子。
経歴
順宗の子として生まれた。徳宗に愛され、その養子となった。貞元4年(788年)、邕王に封じられ、開府儀同三司の位を受けた。貞元7年(791年)、義武軍節度使の張孝忠が死去すると、李謜は義武軍節度大使・易定観察等使となり、定州刺史の張茂昭が留後をつとめ、李謜は宮中から出なかった。貞元10年(794年)6月、昭義軍節度使の李抱真が死去すると、李謜は昭義軍節度大使・沢潞邢洺磁観察等使となり、潞州の将の王虔休が潞州司馬・知留後をつとめ、やはり李謜は宮中から出なかった。貞元15年(799年)10月、李謜は死去した。享年は18。文敬太子と追贈された。この年の12月、昭応に葬られた[1][2]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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