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杉本和喜代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 11:16 UTC 版)

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杉本 和喜代
基本情報
国籍 日本
出身地 和歌山県新宮市
生年月日 1934年
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 日本鋼管

杉本 和喜代(すぎもと かずきよ、1934年 - )は、和歌山県出身の元アマチュア野球選手(投手)。

来歴・人物

新宮高等学校では甲子園に3回出場。1950年夏の選手権では2回戦(初戦)で鳴門高に敗退[1]、この試合での登板はなかった。翌1951年春の選抜に出場、1回戦で扇町商横山光次と投げ合うが完封負け[2]1952年夏の選手権は1回戦で小坂佳隆斎田忠利を打の中心とする法政二高を1-0で完封。続く2回戦は、この大会に優勝した芦屋高植村義信に0-2で完封を喫する[1]。この時のチームメイトに三塁手岡田守雄中堅手川崎啓之介がいた。

明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中3回の優勝を経験[3]。1年上の秋山登とともに投手陣を支えた。1954年1955年には全日本大学野球選手権を連覇。1956年には主将を務める。リーグ通算34試合登板、10勝5敗、防御率1.33、86奪三振。

大学卒業後は社会人野球日本鋼管に進む。1961年都市対抗では日本石油に補強され、佐々木吉郎とともに投手陣の主軸として勝ち進む。決勝では6回から佐々木をリリーフして新三菱重工を無失点に抑え、12回表に自ら2点決勝適時打を放ち優勝を飾る[4]。同大会の橋戸賞を獲得した[4]1962年1月の第4回アジア野球選手権大会日本代表(前年の都市対抗優勝チーム)として、日本の優勝に貢献。

現役引退後は日本鋼管野球部監督を務めた。

脚注

  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 東京六大学野球連盟(記録)」(一財)東京六大学野球連盟
  4. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

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