末吉勘兵衛とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 末吉勘兵衛の意味・解説 

末吉勘兵衛


末吉利方

(末吉勘兵衛 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/20 12:16 UTC 版)

末吉 利方(すえよし としかた[1][2]、大永6年〈1526年〉 - 慶長12年3月5日〈1607年4月1日〉[1][2])は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活動した、平野の豪商[2]。通称は勘兵衛[1][3]、法名は道勘[1][4]。西末吉家の祖で[5]、末吉孫左衛門吉安の養父である[6]。

生涯

大永6年(1526年)、摂津国平野の豪族[7]である末吉藤右衛門行増の次男として生まれる[8][注釈 1]。兄に東末吉家の祖となる藤左衛門増久がおり[9]、弟に三男の茂右衛門長忠[10]や四男の次郎兵衛長成[10]、五男の藤右衛門増長がいる[11][注釈 1]。末吉家は平野を支配したとされる七名家(坂上七名家[13])の一つである[14][注釈 2]。

天正11年(1583年)8月、利方は豊臣秀吉の蔵入地となっていた平野荘のうちの150石を、秀吉より与えられた[15]。この年の11月、秀吉の代官・小出秀政から平野荘民に対し請米が命じられており[16]、その際、利方は東末吉家の兄・増久とともに年寄として年貢の徴収を行ったものとみられる[17]。

天正14年(1586年)、利方は河内国丹北郡布忍村(大阪府松原市)の代官に任じられ[18]、文禄3年(1594年)12月には丹北郡六反村(大阪市平野区)・阿保村(松原市)の代官に任じられた[19]。

平等院領杭全荘(平野荘)には末吉名という名田があり、正慶元年(1332年)8月の「杭全庄末吉名田地坪付注文案」(『大徳寺文書』)によると10町3段330歩という広さがあった[20]。こうした広大な名田の名主職を持つ末吉家は、その地の年貢徴収を長く請け負う中で富を蓄えていったと考えられ、織豊期には各種の特権を認められた豪商として活動している[21]。

末吉家は大和や河内、摂津で行商を行っており[22]、利方は筒井順慶からその領内における商売保護を受けている[23]。天正16年(1588年)には豊臣秀吉から営業税免除の朱印状を与えられた[24]。東西の末吉家は廻船業にも進出し[24]、天正16年(1588年)、利方は上杉景勝から越後方面の諸浦往還において免船6艘分の船役免除を受けた[24]。また同年、利方は三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃を領した[25]徳川家康より朱印状を与えられ[26]、分国内港湾の出入りの自由を保証された[27]。天正18年(1590年)に家康が関八州を領すると、朱印状の効力範囲はさらに拡大し、利方の廻船は関東各地の港に出入りすることとなった[24]。

慶長4年(1599年)、利方は家康に仕えるようになる[28]。慶長5年(1600年)9月21日[1][29]、利方は関ヶ原の戦いの後に上洛する家康を大津駅で迎え、平野荘および6か村における乱暴狼藉を禁じる朱印を与えられたという[1][30]。また、利方は大津代官に任じられている[31][注釈 3]。

慶長5年には、利方の子の藤四郎利長が死去している[33]。利方には、坂上七名家の1つである辻葩家の孫左衛門円教に嫁いだ娘(名は「まき」[34])がおり、その娘の子で、利方の外孫にあたる孫左衛門吉安が利方の養子となり、その後継ぎとなった[33][注釈 4]。さらに、吉安の弟である五郎兵衛(法名は道良)も利方の養子になっており、藤四郎利長の娘と婚姻している[37][注釈 5]。

慶長6年(1601年)5月、家康により伏見に召し出された利方は、諸国の銀価が一定でなく交易に不便であることを述べ[1][39]、後藤庄右衛門(庄三郎光次[1][40])とともに銀座取り立ての上意を受けた[41]。利方と庄右衛門は10人の頭役とともに伏見に銀座を設立[42]。その10人の頭役には、利方の嗣子である吉安や利方の甥(次郎兵衛長成の子)の平野九郎右衛門・藤次郎兄弟が含まれていた[43]。

また、吉安は朱印船貿易家として知られるが[44]、末吉家は慶長9年(1604年)より呂宋に船を出しており(「異国渡海御朱印帳」)[45]、その初期のものは利方の代のものであった[46]。

慶長12年(1607年)3月5日、利方は死去した[1][47]。享年82[1][47]。高野山の蓮花定院に葬られた[1][48]。

脚注

注釈

  1. 1 2 『末吉平野先祖系図』(末吉勘四郎家文書)を中心に論じた中田易直は、利方の父・藤右衛門の諱を長増とし、利方の弟のうち茂右衛門を四男、次郎兵衛を三男としている[12]。
  2. ↑ 平野には坂上田村麿の子の広野麿が定住したとされ、七名家はその直系子孫から分かれた家とされている[7]。
  3. ↑ 大津代官に任じられた時期について、宮本又次は関ヶ原の戦いの後とし[32]、出原真哉は慶長4年(1599年)のこととしている[33]。
  4. ↑ 中田易直は『末吉平野先祖系図』(末吉勘四郎家文書)に「道円孫左衛門ハ藤四郎姉婿」とあるのを元に、吉安を藤四郎利長の姉婿とするが[35]、出原真哉はそれを誤りとする[36]。
  5. ↑ 中田易直は五郎兵衛道良について、利方の実子で次男としている[38]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 堀田正敦ほか 編『寛政重脩諸家譜 第六輯』國民圖書、1923年、161頁。全国書誌番号:21329097。
  2. 1 2 3 中田易直 著「末吉 利方」、朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年、869頁。 ISBN 4-02-340052-1。
  3. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 豊田 1944, pp. 303, 380; 宮本 1957, p. 48; 中田 1990, p. 14; 出原 1996, p. 89.
  4. ↑ 宮本 1957, p. 54; 中田 1990, p. 14; 出原 1996, p. 89.
  5. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 豊田 1944, pp. 303, 380; 宮本 1957, pp. 48–49; 中田 1990, p. 14; 出原 1996, p. 84.
  6. ↑ 中田 1990, p. 8; 出原 1996, pp. 84, 89.
  7. 1 2 中田 1990, p. 6.
  8. ↑ 宮本 1957, pp. 48, 54; 出原 1996, pp. 84, 89.
  9. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 出原 1996, pp. 83, 88–89.
  10. 1 2 平野郷公益会 1931, p. 61; 出原 1996, pp. 86, 88–90.
  11. ↑ 出原 1996, pp. 87–91.
  12. ↑ 中田 1990, pp. 8–9, 13–15.
  13. ↑ 中田 1990, p. 6; 出原 1996, p. 84.
  14. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 55.
  15. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 49.
  16. ↑ 豊田 1944, p. 379.
  17. ↑ 豊田 1944, p. 379; 宮本 1957, pp. 48–49.
  18. ↑ 大阪府史編集専門委員会 1985, p. 24; 新修大阪市史編纂委員会 1989, p. 272.
  19. ↑ 新修大阪市史編纂委員会 1989, p. 272.
  20. ↑ 新修大阪市史編纂委員会 編『新修大阪市史 第2巻』大阪市、1988年、181、527–528頁。全国書誌番号: 89010404。
  21. ↑ 新修大阪市史編纂委員会 1989, p. 145.
  22. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 宮本 1957, p. 49.
  23. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 豊田 1944, p. 303; 宮本 1957, p. 48.
  24. 1 2 3 4 豊田 1944, p. 380; 宮本 1957, p. 49; 新修大阪市史編纂委員会 1989, p. 145.
  25. ↑ 本多隆成『定本徳川家康』吉川弘文館、2010年、140頁。 ISBN 978-4-642-08047-7。
  26. ↑ 豊田 1944, p. 380; 宮本 1957, p. 49; 新修大阪市史編纂委員会 1989, pp. 139–140, 145.
  27. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 豊田 1944, p. 380; 宮本 1957, p. 49; 新修大阪市史編纂委員会 1989, pp. 139–140, 145; 出原 1996, p. 84.
  28. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 宮本 1957, p. 50; 新修大阪市史編纂委員会 1989, p. 272.
  29. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 50.
  30. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 50; 宮本 1957, p. 51.
  31. ↑ 平野郷公益会 1931, p. 61; 宮本 1957, p. 51; 出原 1996, p. 84.
  32. ↑ 宮本 1957, pp. 50–51.
  33. 1 2 3 出原 1996, p. 84.
  34. ↑ 出原 1996, p. 89.
  35. ↑ 中田 1990, pp. 8, 14.
  36. ↑ 出原 1996, pp. 84–85.
  37. ↑ 出原 1996, pp. 84, 89–90.
  38. ↑ 中田 1990, pp. 8, 12, 14.
  39. ↑ 宮本 1957, p. 51.
  40. ↑ 田谷 1963, p. 32; 中田 1990, p. 7.
  41. ↑ 田谷 1963, p. 32.
  42. ↑ 田谷 1963, pp. 4–5, 32.
  43. ↑ 中田 1990, pp. 7, 13; 出原 1996, pp. 84, 86.
  44. ↑ 大阪府史編集専門委員会 1985, pp. 386–387.
  45. ↑ 豊田 1944, p. 382; 宮本 1957, p. 54.
  46. ↑ 宮本 1957, p. 54.
  47. 1 2 宮本 1957; 中田 1990, pp. 7, 14.
  48. ↑ 宮本 1957.

参考文献



英和和英テキスト翻訳

英語⇒日本語日本語⇒英語

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「末吉勘兵衛」の関連用語

末吉勘兵衛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



末吉勘兵衛のページの著作権

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2026 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの末吉利方 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS