曽根定丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/23 09:00 UTC 版)
曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不詳)は愛媛県出身の飛行家。1925年、愛媛県下初の認可飛行場を開設し、後に南米ペルーへ移民として渡った。
来歴
1904年(明治37年)12月4日、愛媛県喜多郡宇和川村で生まれる[1][2]。1922年(大正11年)には東京蒲田駅前にある日本自動車学校航空科へ入学し、機体及び発動機に関して学ぶと同年卒業[3]。続いて同年12月に千葉市寒川海岸で飛行練習場を開いていた白戸栄之助の門下となり、練習部及び研究科で研鑚を積む。1923年(大正12年)9月、関東大震災の影響で同所が閉鎖となると、定丸は白戸により同県津田沼の伊藤音次郎に委託された。同年11月に三等飛行機操縦士の試験を受け、12月付けで航空局より免状を得る[3]。
1924年(大正13年)4月にニューポール83型を購入し喜多号と名付けた。10月には伊藤のもとを離れ、郷土飛行を計画。同月から翌11月にかけて喜多郡大洲町周辺を幾度も飛行して見せた[3]。1925年(大正14年)1月11日、伊予郡松前町徳丸の重信川河川敷、通称・横土手に愛媛飛行場を開設[4]。幅60 m、長さ1 kmで、河原を地ならししただけの簡易なものであったが、航空局の認可を得た飛行場としては県下第一号であった。同時に愛媛飛行練習所も開設。三等飛行機操縦士の免状を持つ定丸が所長兼教官に就任し、機体技師兼飛行助教に伊予郡原町村出身の西松唯一[注釈 1]、発動機技師兼飛行助教に新潟県出身の神林清。温泉郡三津浜町で飴製造業をしていた門屋周次郎が金銭的な支援を行った。
当時飛行機に乗るということは命の危険と隣り合わせであり、卒業までにかかる費用750円は大金であった。入所者はなかなか現れなかったが、開業から半年ほど経った1925年8月、松山商業を卒業して間もない藤田武明が練習生第一号となった[注釈 2]。練習機は当初喜多号一機だけであったが、7月には注文していた陸軍払い下げのアブロ式504K型機が三津浜港に到着。二機体制となる。
小資本の練習所にとって怖いのは頻発する事故だった。その度に大きな修理費用がかかり、練習は滞る。定丸たちは常に金策に走り回っていた。1925年9月13日には助教の西松が単独飛行で着陸に失敗。身体は無事だったが機体は大破した。翌1926年(大正15年)に入る頃には喜多号が使えなくなり、一機残ったアブロ式も4月10日に山口県萩市で墜落大破。これは郷土飛行をしたいという校外の飛行士に貸した際のこと[注釈 3]だったが、使用できる機体が無くなった結果、愛媛飛行場及び愛媛飛行練習所は同年5月18日をもってやむなく解散[注釈 4]。定丸は未だ練習中だった藤田を千葉県津田沼の伊藤音次郎に託した[注釈 5]。
1927年(昭和2年)6月、定丸は義兄・清水類次郎の誘いで太平洋を渡り、南米・ペルーに移住[注釈 6]。リマのアバンカイ通りにあった義兄の時計店で働き、数年後には帰国する義兄より店を受け継いで店主となる[14]。その後、1935年(昭和10年)度の愛媛県人会会長[15]に選出され、貯蓄組合を設立するなど実績を残した。しかし、第二次世界大戦の際に北米へ強制送還され、その後帰国。祖国日本で病没している[13]。娘・エレナ[16]は森本夫人として戦後も首都リマに住み、ラ・ウニオン総合学校で教師を務めながら日本語教育に長く携わった[17]。
脚注
注釈
- ^ 西松は1898年(明治31年)生まれ。北予中学を中退し上京。飛行家となるため練習所に通った[5]。帰郷後、定丸らと共に愛媛飛行場開設に尽力。1927年、同飛行場に松山自動車学校を創設し校長となる[6]。
- ^ 藤田武明は松山市大字沢の地主の息子。1907年3月生まれ。就職した大阪道修町の店を辞めて地元に戻っていた。愛媛飛行練習所の正式な練習生は藤田一人のみとされる[7]。
- ^ 山口県出身の高橋亀飛行士に飛行機を貸与。定丸も同乗する中、萩市で墜落。幸い2人とも命は助かったが、機体は大破した[8]。
- ^ その後、飛行助教だった西松唯一の手によって1928年(昭和3年)に飛行場は再開[4]。自動車学校が設立されたが、1932年(昭和7年)には再び閉鎖。自動車学校は松山市内へ移転した[6]。
- ^ 藤田武明は伊藤飛行機製作所で練習を続け、1927年12月に二等飛行機操縦士免許を取得。御国飛行学校教官を務め、1930年に一等飛行機操縦士。その後に予備役飛行兵となり、1933年7月より朝鮮飛行学校顧問[9]。1934年10月に行われた全鮮一周飛行において京城から咸興までの操縦士を務める[10]。1935年、朝鮮満州間の国境警備飛行責任者を引き受け、隊を組織して第二次大戦終結まで務めた[11]。1998年に航空亀齢章を受章している[12]。
- ^ 「民間飛行家の曽根定丸、南米ペルーに渡る」と大手新聞でも報じられた[13]。
出典
- ^ 高市盛周『愛媛の明治・大正史 (愛媛文化双書;39)』(昭和9年)愛媛文化双書刊行会、1984年7月、21頁。NDLJP:9775042/15。
- ^ 『航空年鑑』(昭和9年)帝国飛行協会、1934年、511頁。NDLJP:1177406/303。
- ^ a b c 田中助治 編『愛媛年鑑』(1925年版)愛媛年鑑発行所、1925年、297-298頁。NDLJP:912581/160。
- ^ a b 『愛媛県百科大事典』 上、愛媛新聞社、1985年6月、381頁。NDLJP:12191039/210。
- ^ 『飛行』2 (12)、帝国飛行協会雑誌発行所、1921年12月、55頁。NDLJP:1491756/32。
- ^ a b 『皇紀二千六百年記念自治産業発達誌』国際通信社、1939年、389頁。NDLJP:1685197/375。
- ^ 高市盛周『愛媛の明治・大正史 (愛媛文化双書;39)』(昭和9年)愛媛文化双書刊行会、1984年7月、24-25頁。NDLJP:9775042/17。
- ^ 高市盛周『愛媛の明治・大正史 (愛媛文化双書;39)』(昭和9年)愛媛文化双書刊行会、1984年7月、28頁。NDLJP:9775042/19。
- ^ 『航空年鑑』(昭和9年)帝国飛行協会、1934年、511頁。NDLJP:1177406/303。
- ^ 『朝鮮交通回顧録』 行政編、鮮交会、1981年11月、177頁。NDLJP:12066291/101。
- ^ 『朝鮮交通回顧録』 行政編、鮮交会、1981年11月、207-208頁。NDLJP:12066291/117。
- ^ 『航空と文化』秋季 (64)、日本航空協会、1998年10月、14頁。NDLJP:2848809/9。
- ^ a b 『ペルー愛媛県人移住史』佐々木仙一、1990年2月、57-58頁。NDLJP:12853543/33。
- ^ 桜井進 編『在秘同胞年鑑』(昭和10年版)日本社、1935年、329頁。NDLJP:12853324/184。
- ^ 愛媛県史編さん委員会 編『愛媛県史』 社会経済 5 (社会)、愛媛県、1988年3月、576頁。NDLJP:9776151/307。
- ^ 『ペルー愛媛県人移住史』佐々木仙一、1990年2月、115頁。NDLJP:12853543/61。
- ^ 『海外における日本語教育の現状と問題点』海外日本語講師研修会レポート no.4、国際交流基金、1979年、87頁。NDLJP:12447217/46。
- 曽根定丸のページへのリンク

 
                             
                    


