愍懐嬪姜氏とは? わかりやすく解説

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愍懐嬪姜氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/02 18:28 UTC 版)

愍懐嬪姜氏
朝鮮世子嬪
 永懷園朝鮮語版(愍懐嬪姜氏墓所、京畿道光明市

出生 万暦39年3月6日
1611年4月18日
死去 順治3年3月15日
1646年4月30日
配偶者 昭顕世子
子女 以下参照
父親 姜碵期
母親 申禮玉
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愍懐嬪 姜氏(びんかいひん きょうし、ミンフェビン カンシ、: 민회빈 강씨1611年4月18日 - 1646年4月30日)は、李氏朝鮮の第16代国王仁祖の王世子昭顕世子の正妃。本貫衿川姜氏

生涯

1611年、右議政の姜碩期(カン・ソッキ)の娘として生まれる。1627年、16歳で昭顕世子と婚姻し、世子嬪となる。1637年、李氏朝鮮がへ降伏し、8年間清の都の盛京で人質生活を送る。昭顕世子との間に3男5女を儲けた。

1645年、夫の昭顕世子が息を引き取る。1646年、昭顕世子の廃嫡を主張していた金自点の告発により、仁祖が食べるアワビに毒を入れたとして、平民に降格の上、実家にて死を賜る。姜氏の母と兄弟達は処刑、息子達は済州島等に流刑となる。享年36(満35歳没)。

死後

その後、長男の慶善君と次男の慶完君は謎の死を遂げている。慶善君は病死ともされるが、2人共、仁祖が放った刺客に殺されたと考える者もいる。

第17代国王孝宗(昭顕世子の弟)の時代から3代に渡り、陰謀であるとして復位論争が起こり、1718年、第19代国王粛宗の時代になってようやく、愍懐の称号を与えられて身分を回復する。賜死から72年が経っていた。

家族関係

  • 父:右議政 姜碩期(1580年-1643年)
  • 母:申禮玉(生年不詳-1647年)
  • 夫:昭顕世子
    • 長女:郡主(1629年-1631年。夭逝)
    • 次女:郡主(1631年-1640年。夭逝)
    • 長男:慶善君(名は栢(石鉄)。1636年-1648年)
    • 三女:慶淑郡主(1637年-1655年。綾昌副尉 具鳳章に降嫁。1男を儲けた)
    • 次男:慶完君(名は石磷。1640年-1648年)
    • 四女:慶寧郡主(1642年-1682年。錦昌副尉 朴泰定に降嫁。5男4女を儲けた)
    • 五女:慶順郡主(1643年-1697年。黄昌副尉 辺光輔に降嫁)
    • 三男:慶安君(名は檜(石堅)。1644年-1665年。男子の中で唯一生き残り、20代まで生存して結婚。長男の臨昌君李焜と次男の臨城君李熀を儲けた。臨昌君李焜(姜氏直系の孫)の系統が少なくとも李氏朝鮮の朝鮮半島支配が終わりを告げ、大韓帝国が滅亡する1910年まで存続している事が記録で確認される)

登場作品




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