高恒 (北斉)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 高恒 (北斉)の意味・解説 

高恒 (北斉)

(幼主_(北斉) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/30 17:40 UTC 版)

幼主 高恒
北斉
第6代皇帝
王朝 北斉
在位期間 承光元年1月1日 - 1月21日
577年2月4日 - 2月24日
姓・諱 高恒
生年 武平元年6月22日
570年8月9日
没年 建徳7年(578年
後主
穆皇后
陵墓 洪涜川
年号 承光 : 577年

高 恒(こう こう)は、北朝北斉の第6代皇帝。後に幼主と称された。

生涯

武平元年(570年)6月、高緯(後主)の長男としてに生まれた。10月、皇太子に立てられた。承光元年(577年)1月、父から帝位を譲られて即位した。この時すでに北周の軍勢が国都の鄴に迫っており、太皇太后胡氏皇太后穆氏が先に済州に避難した。次いで高恒も済州に逃れ、鄴を放棄した。任城王高湝に帝位を譲るべく斛律孝卿に禅文とを託して瀛州に送ろうとしたが、斛律孝卿は北周に降伏してしまった。また高湝に詔を送って、無上皇となり、高恒は守国天王となった。

高恒は父や穆太后とともに青州に逃れたが、数十人が従うのみであった。青州の南鄧村で北周の将軍尉遅勤に捕らえられて鄴に送られた。さらに長安に連行されて温国公に封ぜられた。建徳7年(578年)、穆提婆が叛乱を企てたとの口実で処刑されると、この事件に連座して殺害された。享年9。

死後

大象2年(580年)、陽休之や陳徳信らが北周の実力者であった隋公楊堅に高恒の正式な葬儀を行うよう上申して聞き入れられ、長安の北の洪涜川に葬られた。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  高恒 (北斉)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高恒 (北斉)」の関連用語

高恒 (北斉)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高恒 (北斉)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高恒 (北斉) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS