工藤冬里
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 15:58 UTC 版)
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工藤 冬里(くどう とうり)は、日本の音楽家、陶芸家[1]。
愛媛県在住。1970年代より吉祥寺マイナーを拠点として東京のアンダーグラウンド音楽シーンで活動。大村礼子(工藤礼子)とユニット「NOISE」を結成し、1980年にアルバム『天皇』を自主制作。その後、不定形バンド「Maher Shalal Hash Baz」(マヘル・シャラル・ハシュ・バズ)を中心に活動を展開し、海外レーベルより多く作品を発表。国内外のフェスへの出演も多く、ジム・オルークやビル・ウェルズ、パステルズ、テニスコーツらからの信奉を得ている[1]。
経歴
愛媛県出身。6歳のとき、父方の祖母に「何が欲しいか」と尋ねられた際、祖母の手のひらに「ピアノ」と指で書いたという逸話がある。祖母は驚きつつも、祖父の森林管理事務所からの年金を用いてピアノを購入した。設置されたピアノの大きさに圧倒されたと語っている。
最初に作曲したのは4歳頃の「山の花」である。14歳のときには、学校のキャンプファイヤーのために「梅の花が散り、桜の花がまだ咲いている」という曲を作り、皆で演奏した。本人は「これが後のマヘルの萌芽かもしれない」とし、花を題材にした楽曲が多いと述べている。
幼少よりピアノを学び、中学時代は松山のジャズ喫茶で演奏をしたり、着物の展示即売会のために作曲を手掛けたりして神童ぶりを発揮。1977年に上京し、裸のラリーズのコンサートからの帰りの電車内で大村礼子と意気投合。盟友・角谷美知夫と共に、故・蔦木栄一が経営していたスペース「消しゴム」で演奏を行った。以後、ライヴスペース「吉祥寺マイナー」を拠点に演奏活動を行い、並外れたバイタリティーと霊性を武器に、数多くのグループのライヴやレコーディングへ参加。同時に数多くバンドの結成と解散に立ち会った。
キャリアとしては日本初のパンクバンドといわれるワースト・ノイズ[2]を皮切りに、マシンガン・タンゴ、SEX、NOISE、タコ、ガイズンドールズ、腐っていくテレパシーズ、sweetinspirations、A-MUSIK、コクシネル、Che-SHIZUなど数多くのグループに参加。並行して荻窪グッドマンにて、即興演奏主体のピアノ・ソロを長年行なう。1984年頃、近所に住むあまり楽器に触れたことのない人々との演奏を契機として、Maher Shalal Hash Baz(マヘル シャラル ハシュ バズ)を結成。現在も不特定のメンバーが参加する、特殊な形態のグループとして活動している。マヘルでは多くの場合で譜面を用いながらも、偶然性や即興で生まれるアイデア性を重視しており、独特の和声にリズム感覚、あるいは繊細な歌声に人懐っこいメロディーと相まって、聴く人に不思議な情感を抱かせることで知られている。
2003年にはアメリカ西海岸、イギリス、スコットランドをツアーし、BBCの人気ラジオ番組『JohnPeel Sessions』にも出演する。プレイヤーとしての参加としては、渚にてやPASTELSなど数多い[3]。近年は陶芸家としての活動でも知られている。
人物
- 最も影響を与えた3~5人の音楽家として、ダビデ王・神農・周公・孔子・伯牙を挙げている。
- 人生の目的は、公園を管理し、動植物を世話することだと思っている。
- スタジオ・ポタリー運動(民芸の英国的展開)におけるリーチの同労者である故マイケル・カーデューの窯を訪ねた時、彼の息子がコーネリアス・カーデュー(作曲家。論文「シュトックハウゼンは帝国主義に奉仕する」で知られる)だということを教えられ、自分がなぜいまここにいるのか、という、ウィリアム・モリスから続く自分の血の文脈が突然明瞭になってしまって立ち尽くしたことがあった[4]。
参考文献
- interviewed by Vincent Chen (陈不为) - 24/08/23-Interview
脚注
- ^ a b “工藤冬里 tower record online”. 2025年6月24日閲覧。
- ^ 金子寿徳氏の追悼イベント・・・。 ジュネ公式ブログ 2007年4月30日付。
- ^ “梅田always 工藤冬里 独演(2017/11/06)”. 2025年6月24日閲覧。
- ^ 工藤冬里 (2020/11/01). “ロック史”. 図書 (岩波書店) (第863号).
外部リンク
- 工藤冬里のページへのリンク