岸文笑とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > 日本の画家 > 岸文笑の意味・解説 

岸文笑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 08:49 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

岸 文笑(きし ぶんしょう、宝暦4年(1754年) - 寛政8年4月12日1796年5月18日))は、江戸時代浮世絵師狂歌師

経歴

一筆斎文調の門人。姓は岸、名は誠之。俗称は宇右衛門。狂歌名は桑楊庵、頭光(つぶりのひかる、又はつむりのひかる)、二世巴人亭など。父は豊岡侯に仕えていた。文笑は日本橋亀井町の町代であった。若い時(明和期)に、一筆斎文調の門に入り、黄表紙の挿絵を描いて、名を現し、天明期まで作画をした。中年の頃から狂歌を詠み、後に、大田南畝の門人になり、狂歌師となり、伯楽連を主宰した。酒を好み、頭が早く禿げたために、頭光と称しており、天明狂歌四天王の一人として著名であった。天明寛政にかけて『狂歌桑の弓』(一名『伯楽春帖』)などといった狂歌集に撰者としてその名を連ねた。文笑の没後、伯楽連は窪俊満によって主宰される。なお、巴人亭の号は、南畝より受け、四方側の判者となり、名声高く、門人は大勢いた。

「ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」の句は、良く知られている。代表作として、天明7年(1787年)編著『狂歌才蔵集』、天明9年(1789年)刊行の『絵本譬喩節』(えほんたとえのふし)、寛政4年(1792年)刊行の『圃老巷説 菟道園』(ほろうこうせつ うじのその)(早稲田大学図書館所蔵)などが挙げられる。また、同じく寛政4年(1792年)に、『狂歌桑之弓』、『狂歌太郎殿犬百首』を編集している。狂歌の門人に浅草干則(二世桑楊庵)、浅草庵市人(巴人亭を継ぐ)がいた。

享年43。墓所は文京区駒込の瑞泰寺にある。瑞泰寺には窪俊満7回忌追善の墓碑がある。法名は恕真斎徳誉素光居士。

宝暦年間の紅摺艶本に「岸文笑画」と落款するものありとするが、別人と考えられる。

作品

  • 『往古模様亀山染』 黄表紙 明和7年
  • 『狂歌評判俳優風』 狂歌本 唐衣橘洲朱楽菅江、四方赤良評 天明5年跋
  • 「市川海老蔵と市川八百蔵」 紙本着色  双幅

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岸文笑」の関連用語

岸文笑のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岸文笑のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岸文笑 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS