小松仁三郎とは? わかりやすく解説

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小松仁三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 03:41 UTC 版)

小松 仁三郎(こまつ じんざぶろう、1859年安政6年10月〉- 1937年昭和12年〉10月11日)は陸奥国出身の実業家。田中長兵衛の代理人として金瓜石鉱山所長を務め、日本統治時代の台湾鉱業界で広くその名を知られた。

来歴

会津で生まれ、東京で育つ[注釈 1]。若いころから様々な仕事を経験し、苦境に陥ったこともあったという。1894年(明治27年)に日清戦争が起こると、鐵屋・田中長兵衛が組織する鐵長組の一員として従軍し軍夫長を務めた[2]。1895年4月、この戦争に勝利した日本は清朝より台湾の割譲を受ける。田中長兵衛の長男・安太郎は匪賊や熱病が蔓延っていた台湾に逸早く渡り現地を調査[3]。1896年(明治29年)、島の北部にある金瓜石の採掘権を取得し田中組を組織した。

田中組の長として金瓜石鉱山所長に任命された仁三郎は武装した7名の部下と共に現地へ入り、匪賊による襲撃の危険の中で採掘の体制を整えた[4]。1898年(明治31年)には粗金11貫(約41㎏)、およそ4万3千円相当の金を産出。以来多少の盛衰はあれど増大し、1902年(明治35年)の産出額は108万6千円に上った[注釈 2]。1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると戦時公債の募集が始まる。仁三郎は台湾の日本人個人としては木村久太郎の5万に次ぐ3万円を投じた[6]

1905年(明治38年)には金瓜石において金を多量に含む新たな鉱床が発見される。鉱山主・田中長兵衛(二代目)の長と、鉱山所長である仁三郎の仁をとって「長仁鉱床」と名付けられた[7]。明治末期から大正初年ごろの数年間は年額200万円相当以上の産出量を誇り日本一と称される。産出した金は基隆の台湾銀行を経て大阪造幣局に販売された[4]

1910年(明治43年)田中は愛媛県西宇和郡川ノ石村に金瓜石の支山事務所を開設[注釈 3]。同郡町見村の二見鉱山[9]および同郡喜須来村から日土村にかけての見上谷鉱山[10][11]も併せて仁三郎の管理とした。1913年(大正2年)には金瓜石に隣接する牡丹坑も田中が買取り、これも仁三郎の管理下に入る[3][注釈 4]

1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まると、一般物価高騰の影響で生産額は著しく減少していく[2]。1917年1月、仁三郎は宜蘭庁内を探検。ハガパリシ社[注釈 5]の北およそ2.7㎞地点に硫化銅鉱、モヘン渓上流にあるクバボー社の東約2.2kmの断崖に硫化鉄鉱を発見した。続いて大濁水渓上流の南北渓合流地点より南4kmほどの高地で有望な銅鉱も見出し、またこの探険中、南渓上流の濁水分遺所から約20㎞の所に岩窟より湧出する温泉を発見している[13]

同じく1917年(大正6年)4月、これまで田中家の個人商店であった組織が株式会社化。金瓜石鉱山は田中鉱山株式会社の金瓜石鉱業所となる。その翌年の1918年、仁三郎は30代後半から22年間務めた所長職を辞し、後任には総務部長だった石神球一郎[注釈 6]が就いた。

退職した仁三郎は台北市内の龍口町に居を移し、嘉義市の校外で牧畜や植林事業を始める。牛乳の製造及び販売を主目的として1919年(大正8年)9月に台湾畜産株式会社が設立されると仁三郎は初代社長に推された[15][16]。1921年(大正10年)11月には頂双渓炭鉱株式会社を起こし社長に就任[17]。その他、東洋電化株式会社の社長および台湾貯蓄銀行の取締役も務めた。

仁三郎は当時台湾唯一の図書館であった私立石坂文庫へ蔵書と金銭の寄贈も行っている[注釈 7]。また台湾鉱業会創設時[注釈 8]からの役員であり、第三代会長も務めた[20][21]。1925年(大正14年)に脳溢血となり台北病院へ入院。退院後は自宅にて静養に努め、1937年(昭和12年)10月11日に没した。葬儀は台北市樺山町にある曹洞宗別院で行われ、台湾商工銀行頭取の邨松一造[22]が親族代表として挨拶している[23]

家族

  • 妻のすず子(1868年2月生)は東京芝区琴平町、廣岡卯之助の長女[24]。仁三郎はすず子との間に三男二女をもうけた[1]
  • 二女・もと(1892年生)は東京女学館を卒業し、医学博士の中島鎌太郎に嫁ぐ[25]
  • 三女の八重子(1914年生)は台北第一高等女学校及び東京常磐松高等女学校を卒業し、台湾総督府経理部一等計手・卜部又平[26]の長男・忠男に嫁いだ[27]
  • 四女の千代子(1917年生)は台北第二高等女学校を卒業し、高雄市会議員および台湾運輸業組合議員を務める川野福太郎の長男・一男に嫁ぐ[28]
  • 仁三郎は小松利三郎[注釈 9]の長女・清子(1910年生)と三女の留子(1913年生)を養女としている[29]

脚注

注釈

  1. ^ 千葉県人・中島安五郎の長男として生まれ、後に小松姓を継いだ[1]
  2. ^ このころの人員は職員47名、採鉱人夫は約200名、それらの運搬その他雑務を務める人夫が150名程と記録されている[5]
  3. ^ 金瓜石鉱山は酸性鉱石が多くアルカリ性の鉱石が乏しかったため、二見と見上谷の両鉱山で硫化鉱の不足を補ったと資料にある[8]
  4. ^ このころ仁三郎は東京芝区新堀町28にも居宅を持っている[12]
  5. ^ 「社」というのは台湾原住民の住む集落を意味する。
  6. ^ 辞任直前の役職は以下。金瓜石鉱山所長・小松仁三郎、鉱務部長・安間留五郎、総務部長・石神球一郎、採鉱課長・美座菊千代、製錬課長・番場恒夫となっている[14]
  7. ^ 大正期のある年には、森鴎外の「ギョッツ」や山崎直方の「我が南洋」、佐野実の「南洋諸島巡行記」など13冊と金20円を寄付している[18]
  8. ^ 1912年(明治45年)10月に創設。この際、台湾に関係する各所より寄付が集まったが、最も多かったのは三井物産台北支店の2500円。金瓜石鉱主の田中長兵衛は個人として2000円、金瓜石田中鉱業所として別に1500円を寄付。仁三郎も個人で300円を寄付している[19]
  9. ^ 山口県、小松勝蔵の長男。1874年(明治7年)1月生まれ[29]。1898年に台湾に渡り、基隆にて船具金物商を起こし成功した[30]。頂双渓炭鉱および東洋電化取締役。同じ会社の役員同士で住所も隣[31]であり、利三郎は仁三郎唯一の郎党と呼ばれた[32]

出典

  1. ^ a b 古林亀治郎 編『現代人名辞典』191号、中央通信社、1912年、コ之部 46頁。NDLJP:779591/758 
  2. ^ a b 台湾 1937, p. 0.
  3. ^ a b 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄釜石製鉄所、1955年、85頁。NDLJP:2477257/96 
  4. ^ a b 工業大辞書編輯局 編『工業大辞書:大日本百科辞書』 第3-4冊、同文館、1913年、1199-1200頁。NDLJP:845405/143 
  5. ^ 『工業雑誌』17 (253)、1902年10月、27頁。NDLJP:1561338/29 
  6. ^ 台湾総督府警務局 編『台湾総督府警察沿革誌』 復刻版 2、緑蔭書房、1986年9月、775頁。NDLJP:12287865/434 
  7. ^ 『台湾鉱業会報』191号、台湾鉱業会、1938年3月、90頁。NDLJP:1513042/47 
  8. ^ 『明治前期産業発達史資料』 別冊75 (4)、明治文献資料刊行会、1970年、40頁。NDLJP:11997700/210 
  9. ^ 『明治前期産業発達史資料』 別冊88 (4)、明治文献資料刊行会、1971年、594頁。NDLJP:11999777/131 
  10. ^ 『明治前期産業発達史資料』 別冊75 (3)、明治文献資料刊行会、1970年、283頁。NDLJP:12002247/68 
  11. ^ 『愛媛県誌稿』 下巻、愛媛県、1917年、1092-1093頁。NDLJP:925916/556 
  12. ^ 『大日本護謨同業名鑑』192号、ゴム新報社、1913年、東京 ム63頁。NDLJP:950441/152 
  13. ^ 『理蕃誌稿』 第4編、台湾総督府警務局、1932年、297頁。NDLJP:1453004/169 
  14. ^ 『日本紳士録』(22版)交詢社、1918年、全国銀行会社録 東京府之部 35頁。NDLJP:1703952/837 
  15. ^ 『島内銀行会社摘要』(大正8年12月末現在)台湾銀行調査課、1920年、33頁。NDLJP:957018/23 
  16. ^ 『台湾株式年鑑』(1931年)台湾経済研究会、1931年、299頁。NDLJP:1175590/174 
  17. ^ 『台湾株式年鑑』(昭和7年)台湾経済研究会、1932年、182頁。NDLJP:1175597/113 
  18. ^ 『私立石坂文庫年報』(第7年報)石坂文庫、1916年、20頁。NDLJP:980532/14 
  19. ^ 『台湾鉱業会報』192号、台湾鉱業会、1938年6月、130-131頁。NDLJP:1513044/76 
  20. ^ 『台湾鉱業会報』192号、台湾鉱業会、1938年6月。NDLJP:1513044/7 
  21. ^ 『台湾鉱業会報』192号、台湾鉱業会、1938年6月、132-133頁。NDLJP:1513044/76 
  22. ^ 『人事興信録』(第11版下)人事興信所、1937年、ム之部 57頁。NDLJP:13046235/985 
  23. ^ 台湾 1937, p. 94.
  24. ^ 『大日本婦人録』婦女通信社、1908年7月、742頁。NDLJP:779870/441 
  25. ^ 『帝国大学出身名鑑』(大正4年甲)校友調査会、1932年、ナ16頁。NDLJP:1465969/659 
  26. ^ 内閣印刷局 編『職員録』(大正4年甲)印刷局、1915年、1145頁。NDLJP:12301371/606 
  27. ^ 『大衆人事録』 外地・満支・海外篇、帝国秘密探偵社、1940年、台湾 8頁。NDLJP:1173407/42 
  28. ^ 『大衆人事録』 外地・満支・海外篇、帝国秘密探偵社、1940年、台湾 15頁。NDLJP:1173407/45 
  29. ^ a b 『人事興信録』(第13版上)人事興信所、1941年、コ之部 66頁。NDLJP:3430443/691 
  30. ^ 橋本白水『台湾の官民:評論』台湾案内社、1919年、137頁。NDLJP:960680/178 
  31. ^ 内外電報通信社、人物評論社 編『紳士興信録』(昭和8年版)内外電報通信社、他、1932年、台湾 こ之部 8頁。NDLJP:1174557/1426 
  32. ^ 宮川次郎『新台湾の人々』(昭和8年版)拓殖通信社、1926年、274頁。NDLJP:983304/148 

参考文献

  • 『台湾鉱業会報』189号、台湾鉱業会、1937年10月。 NCID AN00366848 



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