石神球一郎とは? わかりやすく解説

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石神球一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/19 18:52 UTC 版)

石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16年〉- 1932年〈昭和7年〉)は甑島出身の技術者。金瓜石鉱山所長及び台湾鉱業会理事を務めた。本項では甑島における鹿の子百合球根輸出の先駆けとなった父の石神弘志についても併せて記述する。

来歴

石神家は鹿児島県上甑島の士族であり、1862年(文久2年)の文久の法難[注釈 1]の際に地頭の石神萬兵衛を派遣したという記録が残っている[1][注釈 2]。その後明治維新を経て父・弘志は東京の警視庁に警部として勤める[3]。1873年(明治6年)に西郷隆盛が官職を辞し鹿児島へ帰ると、多くの同調者がそれに倣った。弘志もまた職を辞し故郷の鹿児島に戻ったが、私学校の生徒らに官軍のスパイと疑われ捕らえられてしまう[注釈 3]警視局による取り調べの結果、西郷側に加担した事実は無いとして釈放されたが、屋敷のある里村に帰っても周囲の疑いの目はなかなか晴れなかった[3]。そんな中、1877年(明治10年)に西南戦争が勃発。西郷は薩軍大将として城山に散った。里村で蟄居同然の日々を送っていた弘志はやがて細々と農業を始め、ハナという妻を娶る[5][注釈 4]。そして貧しい生活の中、島に自生する鹿の子百合を観賞用として横浜からアメリカに輸出することを考えた。この頃弘志は長男を授かり、百合の球根から一字取って「球一郎」と名付けている[注釈 5]

1884年(明治17年)6月、鹿児島を大型台風が襲う。甑島は最も深刻な被害を受け、その後の不作不漁もあって種子島への移住計画が進められるほどの苦境であった。復興には年月を要し、やっと球根の輸出体制が整ったのは1894年(明治27年)のこと[注釈 6]。同年8月、輸送船に同乗し弘志は横浜を目指した。しかし採取や梱包の方法が不完全であったのに加えて日清戦争の影響で民間物流が思うようにならず、やっと横浜に着いた時には球根は全て腐敗していた[注釈 7]。数百円の損失を出し、帰りの旅費も無くなった弘志はかつて住んだ東京へ行き知人を探す。そしてある橋で途方に暮れていた際に出くわしたのが旧知の田中長兵衛であった。安堵した弘志だったが「この非常時に花など売って暮らそうとは何事ぞ」という友の言葉に動かされ、鹿児島には戻らずそのまま従軍。1895年(明治28年)春に日清戦争から凱旋すると、5月には北白川宮能久親王の近衛師団に入り台湾征討に向かった。同年11月に全島平定宣言が出された後はそのまま現地に残り、前述の田中長兵衛が経営権を取得した金瓜石鉱山で監督として働く道を選んだ。ここでやっと安定した暮らしを得た弘志は甑島より妻子を呼び寄せている[注釈 8]

長男の球一郎は田中長兵衛の世話を受け東京高等工業学校に通うと、1902年(明治35年)7月に機械科を卒業[9]。田中家が金瓜石以前から手掛けていた岩手県の釜石鉱山に勤めた[10]が、翌年帝国陸軍を志願して近衛歩兵第一連隊第六中隊に入隊[11]。1905年夏、東京砲兵工廠付きとなる[12]。1907年(明治40年)頃まで陸軍に身を置き、除隊後は父と同じ台湾の金瓜石鉱山で技術者として働いた[13]。弘志は息子・球一郎が金瓜石鉱山に勤め始めると自身は退職、再び警察に籍を置く[注釈 9]。台湾の警察署長を最後に引退すると、鹿児島県姶良郡嘉例川[注釈 10]にあるラムネ温泉を購入して運営しつつ、76歳で没するまで悠々自適に暮らした[16][17]

明治末頃から大正初期にかけて年額200万円相当以上の産出量を誇り、日本一の金山と称された金瓜石鉱山を球一郎は主任技術者[18]として支える。1917年(大正6年)には会社が法人化して田中鉱山株式会社となり、金瓜石鉱山は金瓜石鉱業所となった。初代所長の小松仁三郎は翌1918年退任。総務部長などを務めた球一郎がその後任に就いた[19]。この年の11月に第一次世界大戦が終わり、やがて戦後不況の風が吹くと鉱山の業績は低迷。一方、球一郎は社団法人台湾鉱業会の理事も務めた[20]。1922年(大正11年)には翌年台湾に行啓予定の皇太子の宿泊棟として、金瓜石の地に檜造りの太子賓館中国語版が建設される。この年、父の病を理由に球一郎は金瓜石の所長を辞任[21]。同年11月に岩手の釜石鉱山鉱業所で用度課長兼運輸課長を務めていた田中清[注釈 11]が金瓜石鉱山の新所長に抜擢された[22]。鹿児島に戻った球一郎は父が買ったラムネ温泉の経営にあたり、鉱泉を薬用飲料として販売[注釈 12]。1932年(昭和7年)に没した[25][26]

ラムネ温泉

泉質は含鉄炭酸泉。主な効能は胃腸病、下痢症、貧血症、糖尿病、神経衰弱とある。牧園村宿窪田に位置し、嘉例川駅からは約2kmで車や馬が通れる道は無いが駕籠あり。牧園駅からだと約8.5kmで馬車あり。上記情報はすべて大正初期のものであり、当時は年間500人余りの湯治客が来訪した[17]。腎臓炎を発症し、その治療のため地域を探索していた石神弘志が1905年(明治38年)にこの温泉を発見したとされ、石神球一郎を経てその長男・石神一郎[注釈 13]へと代々経営が受け継がれた。ラムネ温泉は1号泉と2号泉があり、成分はほぼ同一[27]。また飲用にも用いられ、瓶詰めにして「ナチュラ」の名で販売された[28]

ラムネ温泉は令和現在も営業しており、坂本龍馬も入浴したという塩浸温泉より1㎞ほど上流にある。塩浸温泉から1kmと少し下流にあるバス停「ラムネ温泉」の近くにも古い建物があり、こちらは昔使われていたラムネ温泉の跡地。災害で一度埋まってしまったがその後改修され、少なくとも1970年代までは露天風呂に入ることが出来た[29]が、いつの頃か放棄されたと思われる。


脚注

注釈

  1. ^ 当時真宗(一向宗)は禁止されており、信仰が発覚すると死罪や遠島などの厳しい罰を受けた。この年は密告により上甑島で大掛かりな取り調べがあり、多くの仏像や経典が焼却されると共に、15歳以上の村民全員が真宗を信じない旨の血判を取られたとされる。
  2. ^ 石神姓は隼人町嘉例川の出とされ、石神萬兵衛は1865年(慶応元年)に踊郷(牧園)の地頭に就任。日当山郷の地頭も兼ねた[2]
  3. ^ 実際に1876年末頃から、大警視・川路利良の命で鹿児島諸地域出身の警官が密偵として送り込まれ、私学校党の離間工作を行っていたとされる[4]
  4. ^ 旧姓は里村ハナ。鹿児島市加治屋町の出身で、子供の頃は西郷隆盛によく可愛がられたという[1]
  5. ^ 「鹿の子百合輸出秘話」によれば明治15,16年頃に子が腹に入った、とある。球一郎は二番目の子であり、上に長女のシマ、下に二女の正子と三女の貞(明治20年生)がいる[5]。また観賞用の百合を球根として出荷するこの計画以前から、食用として乾燥百合の出荷は行われていた。
  6. ^ 苦境の際、妻のハナは裁縫仕事をし三味線を教え蚕を飼って家計を支えた。出荷に際し弘志に協力した島民は梶原仲之助や村岡権助らをはじめ88名[6]。当時は島から本土への定期便さえ無く、鉄道も本州の一部にのみ走っている時代であり、輸送は非常に困難であった。弘志は横浜植木社に照会し手はずを整える[5]
  7. ^ 弘志の出立後、球根の出荷に協力した88名は島の財産を売渡した(従来の乾燥百合は食用)として他の島民から弾劾され、出荷はそれきりとなった。その後しばらく経った1900年(明治33年)夏、横浜植木社の社長が台風で目的地の奄美に行けず中甑港に寄港する。この際弘志と交渉しようと里村を訪問。石神家が台湾へ移住したことを聞き残念がったため、役場は協力者だった梶原仲之助を紹介した。結果、百合球根は250箱出荷され、これが最初の成功例となった。以後球根は乾燥百合に代わる島の特産品となっていく[7]
  8. ^ 百合球根の出荷に横浜へ行ったきり夫が蒸発状態となっていた妻のハナは、百合の借金のせいで土地も家も処分せざるを得ず、子も虐められるなど大変な苦労をしていた。弘志は妻子の他、かつての百合事業の協力者のうちで仕事の出来そうな者数名も金瓜石へ呼び寄せたので、故郷では成功者として羨まれたとされる[8]
  9. ^ 「鹿の子百合輸出秘話」では球一郎が田中家の鉱山に就職した後に弘志は警察に戻ったとあるが、「職員録」によると球一郎の在学中から台湾の警察で働いていたことが確認できる[14][15]
  10. ^ 住所は姶良郡牧園村宿窪田。後の霧島市にあたる。
  11. ^ 1884年(明治17年)7月、高松市西浜町の生まれ。山口高等商業学校を第一期生として1908年に卒業し、日本電気化学工業株式会社や大阪アルカリ株式会社の工場長を経て1918年(大正7年)に田中鉱山株式会社入社。社長・田中長兵衛の血縁ではない。
  12. ^ 1924年(大正13年)にラムネ井鉱泉所[23][24]として登録。2年後に嘉例川鉱泉所に商号変更した。
  13. ^ 1914年(大正3年)12月5日、台湾基隆生まれ。1933年に鹿児島二中を経て明治大学へ進学したが、一学年修了後に父が死去。このため退学し、温泉経営を継ぐ。一郎には三弟一妹があり、上の弟は七高造士館に、下の弟2人は共に鹿児島二中に進んだ。

出典

  1. ^ a b 百合 1969, p. 15.
  2. ^ 『牧園町郷土誌』牧園町、1981年8月、218頁。NDLJP:9773907/126 
  3. ^ a b 里村郷土誌編纂委員会 編『里村郷土誌』 上巻、里村、1985年3月、633-634頁。NDLJP:13324675/325 
  4. ^ 百合 1969, p. 4.
  5. ^ a b c 百合 1969, p. 5.
  6. ^ 百合 1969, p. 6.
  7. ^ 百合 1969, p. 8.
  8. ^ 百合 1969, p. 7.
  9. ^ 『東京高等工業学校一覧』(明治42-44年)東京高等工業学校、1912年、110頁。NDLJP:813048/63 
  10. ^ 『機械工芸会誌』31号、機械工芸会、1902年7月、90頁。NDLJP:1502702/52 
  11. ^ 『機械工芸会誌』39号、機械工芸会、1904年3月、61頁。NDLJP:1502710/34 
  12. ^ 『機械工芸会誌』45号、機械工芸会、1905年7月、25頁。NDLJP:1502716/26 
  13. ^ 『日本工業要鑑』第4版 (明治42年)、工業之日本社、1910年、工学者及び技術者 イ之部24頁。NDLJP:902303/69 
  14. ^ 『職員録』明治30年現在 (甲)、印刷局、1897年、648頁。NDLJP:12353845/346 
  15. ^ 『職員録』明治32年現在 (甲)、印刷局、1899年、713頁。NDLJP:12353847/377 
  16. ^ 百合 1969, p. 16.
  17. ^ a b 『鹿児島県温泉誌:附・温泉療法』竪山正義、1915年、82頁。NDLJP:932604/63 
  18. ^ 『日本電業者一覧』(明治43年)日本電気協会、1910年、344頁。NDLJP:803762/266 
  19. ^ 『台湾鉱業統計』(大正8年)台湾総督府殖産局商工課、1921年、49頁。NDLJP:975473/34 
  20. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第2655号、付録3頁、1921年6月8日。NDLJP:2954770/27 
  21. ^ 郡正一 編『蔵前校友誌』蔵前校友誌編纂所、1926年、26頁。NDLJP:1020829/48 
  22. ^ 橋本白水『台湾統治と其功労者』南国出版協会、1930年、民間の部 第五編 59頁。NDLJP:1465829/189 
  23. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第3623号、号外 28頁、1924年9月18日。NDLJP:2955771/32 
  24. ^ 『日本政府登録商標大完』 第1類 図形商標、帝国工協会、1936年、175頁。NDLJP:1246510/189 
  25. ^ 『東京工業大学一覧』(昭和6至7年)東京工業大学、1931年、148頁。NDLJP:1448325/82 
  26. ^ 『東京工業大学一覧』(昭和7至8年)東京工業大学、1932年、155頁。NDLJP:1448336/85 
  27. ^ 厚生省大臣官房国立公園部 編『日本鉱泉誌』青山書院、1954年、699頁。NDLJP:1374432/717 
  28. ^ 『地方発達と其人物』郷土研究会、1938年、1144頁。NDLJP:1052212/579 
  29. ^ 『日本と世界の旅』211号、山と渓谷社、1973年5月、111頁。NDLJP:2259767/56 

参考文献

  • 『鹿児島県甑島"鹿の子百合"輸出秘話』松竹秀雄、1969年。 



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