宍戸就尚
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長12年6月17日(1607年8月9日)[1] |
死没 | 寛永17年8月23日(1640年10月8日)[1] |
別名 | 弥三郎、雅楽、越前 |
官位 | 雅楽頭、越前守 |
主君 | 毛利輝元→秀就→綱広 |
氏族 | 藤姓宇都宮流宍戸氏 |
父母 | 父:宍戸広匡、母:穂井田元清娘 |
兄弟 | 就尚、熊谷元実 |
妻 | 正室:興正寺准尊娘、千子 |
子 | 心鏡院(宍戸就附室)、養子:就附 |
宍戸 就尚(ししど なりなお)は、江戸時代初期の長州藩毛利家家臣。宍戸家第16代当主。父母両方の祖に毛利元就がいる。
生涯
慶長12年(1607年)、毛利家家臣宍戸広匡の長男として生まれる。寛永元年(1624年)。父の隠居により家督を相続する。寛永2年(1625年)の藩内の知行替えにより、佐波郡右田から熊毛郡三丘に移る。以降、宍戸家は代々三丘領主、長州藩一門家老筆頭を務める。寛永年間、領内に正覚寺を創建する。
寛永17年(1640年)死去。享年34。家督は実弟熊谷元実の子の宍戸就附が相続した。
脚注
参考文献
- 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
固有名詞の分類
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