太郎ヶ城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/20 16:41 UTC 版)
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城郭構造 | 輪郭式平城 |
築城主 | 国枝為助 |
築城年 | 応仁文明年間 |
主な城主 | 国枝氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし(過去に、土塁と幅7 m以上の堀検出) |
指定文化財 | なし |
太郎ヶ城(たろうがじょう)は、美濃国池田郡本郷(岐阜県揖斐郡池田町)にあった日本の城。
概要
応仁文明年間(1467-1486年)ごろ、安八郡(現神戸町)田村から本郷に移った国枝氏の、国枝為助(ためすけ)が築城したとされる[1]。なお、為助は1495年に死去している。
国枝氏は為助の後、正助、宗龍、重光、重元、重高、政森と続いたが、関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍に属して敗れた[2][信頼性要検証]。
場所
形式は「平城」で、温知小学校一帯に築かれていた[3][信頼性要検証]。
明治時代の字絵図では、城の土塁や堀の形に土地割りがされていて、かつて城が存在したことが確認できる。なお、その字絵図を参考に復原すると、
- 堀を含め、南北108 m、東西88 mの長方形
- 堀・土塁はともに、5-10 mほどの幅で、周囲を取り囲んでいる
以上が、主な城の概要である。
なお、1995年(平成7年)の駐車場造成にともなった発掘調査[4]にて、
- ほぼ字絵図通りの位置に堀と土塁を検出
- 堀は、深さ1.7 m、幅は7 m以上と推測
- 土塁は、削られ高さは不明であるが、幅は約7 mと確認
など、細かく確認できた。
現在は小学校の北側の路地脇に石碑があるのみである[4]。
脚注
- ^ “本郷城跡 池田町史跡”. 岐阜県揖斐郡池田町. 2024年7月6日閲覧。
- ^ “美濃 太郎ヶ城”. 城郭放浪記. 2024年7月6日閲覧。
- ^ “池田・本郷城 /城跡巡り備忘録 岐阜県”. www.466-bun.com. 2024年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月6日閲覧。
- ^ a b 池田町教育委員会 編『本郷城跡・太郎ヶ城跡発掘調査報告書』池田町教育委員会、2003年3月、[要ページ番号]頁。 NCID BA63343049 。2024年7月6日閲覧。
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