大菅南坡とは? わかりやすく解説

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大菅南坡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 14:23 UTC 版)

大菅 南坡(おおすが なんぱ、宝暦4年(1754年) - 文化11年11月15日1814年12月26日))は江戸時代後期の儒学者。名は集。通称は権之丞。字は翊之。別号に蘭沢。

生涯

宝暦4年(1754年)生まれた。生家は石谷家とも岩泉家ともいう[1]彦根藩の儒者野村東皐に儒学を学んだ[1]大菅中養父婿養子となり[1]、藩士印具氏に仕えたが、陪臣に甘んずることを嫌って致仕し、京都に上った[2]。京都では講談で評判を取った[2]

天明6年(1786年)2月20日、彦根藩主井伊直幸に呼び戻され、直接儒員に取り立てられた[2]。次代藩主井伊直中には度々相談を受け、寛政3年(1791年)9月13日月見の宴を病欠した際には、「さ丹頬ふ君が辺りと別きて尚ほ今宵の月の清く照るらん」「隈もなく今宵の月と照りたれど君をし見ねば楽しくもなし」の2首を賜った[2]

寛政11年(1799年)直中の稽古館を設立に関わり、設立後その学問方に就任した[2]文化11年(1814年)11月15日病没[2]

経歴

  • 天明6年(1786年)2月20日 - 儒員、10人扶持[2]
  • 寛政4年(1792年)7月28日 - 系譜編輯掛[2]
  • 寛政8年(1796年)5月19日 - 遊学を許される[2]
  • 寛政11年(1799年)5月 - 帰国[2]
  • 同年8月4日 - 稽古館学問方[2]
  • 同年12月26日 - 稽古館設立に関わった功で、金500匹下賜[2]
  • 寛政12年(1800年)12月28日 - 職務勉励に付き、綿2把下賜[2]
  • 享和2年(1802年)12月28日 - 15人扶持[2]

著作

  • 『彦根史外伝』
  • 『南坡疏抄』

性格

  • 倹約家で、常に絹ではなく綿衣を着ていたので、綿衣先生と呼ばれた[2]

脚注

  1. ^ a b c 『日本人名大辞典』講談社
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「学士小伝 旧彦根藩」『日本教育史資料』5・巻12、文部省、1891年 p.14-15

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