大戸浦野氏の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:38 UTC 版)
しかしその後真楽斎ら大戸浦野氏の国衆としての動向はみられなくなる。天正12年(1584年)2月には北条氏邦が大戸に赴き手子丸城(現・東吾妻町)の普請を行っており、大戸浦野氏の勢力圏が後北条氏により直接管理されている。 『加沢記』に真楽斎の最期が記されている。真楽斎ら大戸浦野氏は後北条氏から離反したため、天正11年9月に内藤丹波守・富永主膳を大将とする北条軍5000騎が大戸方面へ派遣された。真楽斎と弟の但馬守は三ノ倉で応戦したが敗れ、さらに手子丸城に三日間籠城した後兄弟共に自害したという。 天正10年9月時点で甥の民部左衛門尉が上杉氏に通じており、大戸浦野氏は上杉景勝へ離反した結果没落したのではないかと推測されている。
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