名塩蘭学塾
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名塩蘭学塾(なじおらんがくじゅく)は、兵庫県西宮市名塩地区に文久2年(1862年)から明治2年(1869年)まで存在したとされる蘭学の私塾である。開設と活動の概要は、西宮市公式広報[1]および同市「にしのみやデジタルアーカイブ」[2]に記録が残るほか、学術論文[3]でも8年間の活動が論じられている。
概要
緒方洪庵の適塾で学び第6代塾頭を務めた伊藤慎蔵が、文久2年(1862年)に摂津国名塩で開いたとされる。塾の活動期は文久2年から明治2年までの約8年である[3][4]。現在、跡地はJA兵庫六甲名塩支店付近とされ、前面の旧道は平成元年(1989年)に「蘭学通り」と命名された。支店玄関横には洪庵夫人・緒方八重の像(石碑様式を含む)が設置されている[2][1][注釈 1]。
歴史
伊藤慎蔵は、洪庵夫人・緒方八重の世話により名塩出身の妻・時子と結婚し、その養生のため一家で名塩に移ったとされる。八重の父・億川百記および適塾出身で名塩の大漉元・弓場五郎兵衛家当主弓場為政の勧めにより、億川家の一室に塾を開いた[2]。
開塾は文久2年(1862年)で、近在のみならず三田・丹波、遠くは美濃や豊後からも若者が集まり、一室では収容できない盛況であったと伝えられる[2]。明治期の学制整備が進む中、明治2年(1869年)に伊藤が神戸洋学伝習所に迎えられ(教授)、翌明治3年(1870年)に組織が大坂開成所へ改組されたことに伴い、名塩での塾は閉じられた(存続期間約8年)[5][6][注釈 2]。平成元年(1989年)、跡地前の旧道は「蘭学通り」と命名された[2]。
関連項目
脚注
注釈
出典
- ^ a b “にしのみや歴史見聞録 名塩蘭学塾跡(名塩1丁目) 洪庵の妻・八重と蘭学のつながり”. 西宮市 (2011年10月10日). 2025年8月10日閲覧。
- ^ a b c d e “蘭学通り|にしのみやデジタルアーカイブ(資料解説)”. 西宮市. 2025年8月10日閲覧。
- ^ a b 小畑, 登紀夫 (2012). “「名塩蘭学塾」8年の重み―塾長・伊藤慎蔵をめぐる人々”. 近代日本の創造史 13: 3–18 2025年8月10日閲覧。.
- ^ “『福井県史』通史編4 近世二(第五章 三 新しい学問 四 大野藩と蘭学)”. 福井県文書館(福井県). 2025年8月10日閲覧。
- ^ 三好, 正史 (2011). 犬 も 歩 け ば ~その7~. 12. pp. 29–32 2025年8月10日閲覧。.
- ^ “神戸の学校史(詳細)”. 神戸市. 2025年8月10日閲覧。
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