吉田城 (三河国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 16:14 UTC 版)
吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。
- ^ 近年、史料から明応6年(1497)には牧野古白が今橋の城に居城していたと見られることから、今橋城成立が明応6年(1497)と解説されていることがある。(『三河吉田城』2018 110-116頁)
- ^ 池田輝政が吉田城在城時は「照政」と自署していたため吉田城に関する説明では「照政」が使われることもある。(『豊橋百科事典」(web版)豊橋市,2006,41頁)
- ^ 「今橋物語」所収の永正2年11月(旧暦)付の渡辺平内次宛今川氏親判物は馬見塚村(現在の豊橋市今橋町)地頭であった渡辺平内次に替地として渥美郡三相村(現在の豊橋市三ツ相町から馬見塚町辺り。)を宛てる旨を記し、これが馬見塚村の今橋築城を示すとされている(『豊橋市史』368頁)
- ^ しかし、築城者について「牛窪記」では、築城者を牧野家(奉行)、城主を牧野田三としているのに対して、後の成立である「牛窪密談記」では築城者および城主を牧野成時(古白)、「宮嶋伝記」には牧野古白(成時)としており、違いがある。(『豊橋市史』366-368頁)
- ^ この際、田原城・二連木城の両戸田氏等の戸田一族は宣成を救援した形跡が無く、このことから宣成が戸田一族の今川氏に対する犠牲となったとする。(『豊橋市史』390頁)
- ^ 『家忠日記』に、「天正三年吉田の町口乃…」と記載がある。
- ^ 『豊橋産業文化大博覧会誌』80頁
- ^ 平成17年10月2日東愛知新聞12面
- ^ 「吉田城リニューアルオープン」(豊橋観光コンベンション協会 最新情報 2016.03)2017年2月19日閲覧
- ^ “「続日本100名城」発表。スタンプラリーは準備に数か月か”. 公益財団法人日本城郭協会 (2017年4月25日). 2018年4月6日閲覧。
- ^ 令和4年4月7日 東愛知新聞 1面
- ^ 『三河吉田城』 2018, p. 53-55頁.
- ^ 『吉田城址(I)』 1994, p. 4頁.
- ^ 『三河吉田城』 2018, p. 4-14頁.
- ^ 『三河吉田城』 2018, p. 26-30頁.
- ^ 『吉田城遺跡』 1992, p. 90頁.
- ^ 『三河吉田城』 2018, p. 16-18頁.
- ^ 『市内遺跡発掘調査』 2021, p. 51-57頁.
- ^ 『とよはしの歴史』 1996, p. 102-103頁.
- ^ 書籍等での鉄櫓の説明には、例えば「復興された吉田城隅櫓」(『日本の城完全名鑑』廣済堂出版 63頁)や「模擬再建」(『続日本100名城公式ガイドブック』学研プラス 94頁)のように書かれ「復興」・「模擬」の表現に違いが見られる。ここでは出典にならい「復興」としている。(『吉田城址(VIII)』 2006,38-43頁)
- ^ 『吉田城址(VIII)』 2006, p. 38-43頁.
- ^ 『市内遺跡発掘調査』 2020, p. 1-13頁.
- ^ 寺伝では「元禄11年(1698)に当時の吉田城主久世重之により寄進された」といわれている。平成4年から行われた保修理工事時に発見された墨書銘などから山門(惣門)が建てられたのは寺伝より前の延宝2年(1674)であることが判明している。(『本興寺惣門保存修理工事報告書』湖西市教育委員会,1994,8頁)
- ^ 「缶の吉田城櫓完成 豊橋 ギネス記録に認定」(『読売新聞』2013年9月22日)
- ^ 「吉田城」(豊橋市)2022年3月13日閲覧
[続きの解説]
「吉田城 (三河国)」の続きの解説一覧
- 1 吉田城 (三河国)とは
- 2 吉田城 (三河国)の概要
- 3 歴史
- 4 城名について
- 5 その他
- 6 外部リンク
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