加藤棕盧とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 加藤棕盧の意味・解説 

加藤棕盧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 16:50 UTC 版)

加藤 棕盧(かとう そうろ、1790年寛政2年) - 1851年9月18日嘉永4年8月23日))は、江戸時代後期の儒学者。安芸国(現:広島県)出身。名は景纉(かげより)。は君緒。太郎三、太郎助、株鷹とも称する。別号は肯堂。

経歴

1790年(寛政2年)広島藩士加藤定斎の長男として生まれる。父定斎は藩儒であり広島藩校学問所(現:修道中学校・高等学校)の教授を務めた人物であった。棕盧も藩校学問所に入学、頼杏坪らに師事し国学や画を修める。父の跡をついで藩儒となり藩校学問所の教授を務める。頼杏坪らと「芸藩通志」を執筆・編集し、故事の調査や古文書の解釈にあたった。文人画家としても多くの作品を残す[1]。1851年(嘉永4年)8月23日逝去[2][3]

代表的著作・作品

  • 芸藩通志(全159巻)」(頼杏坪頼舜壽、黒川方楙らと共編)
  • 「芸備孝義伝三編」(金子霜山と共編)[4]
  • 「むかしがたり」
  • 「藝州嚴島圖會(芸州厳島図会)」(頼杏坪と再訂を行う)

遺跡

  • 「長渠の碑」- 広島県呉市宮原に所在。洪水防止と治水のために掘削した放水路(宮原の長渠)の完成を記念して建立。加藤棕盧撰文[5]

脚注

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「加藤棕盧」の関連用語

加藤棕盧のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



加藤棕盧のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの加藤棕盧 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS